「……私ね、父のこと、嫌いなのよ。本当に、嫌い」
それが思わずこぼれた本音だと気づいたのは、彼女の目の奥が少し揺れたからだった。
「父の会社は鉱山資源の採掘や販売をしていてね。父はパーティじゃ外面良く振る舞ってるけど、自分の利益のことばかり考えてる。そんな酷い人よ」
イヴはそこで首を振った。忘れてと言うように。でも今、このまま一緒にいたら話してくれるような気がした。
ふと振り返ると、離れたところに控えていたルーシーが心配そうにこちらを見ていた。彼女のほうへ行き「辛い悩みがあるみたいなの」と言うと、彼女はありがたくも席を外してくれた。今日はルーシーが指示を仰ぐことのできるお義父様が留守にしているので、去り際まで不安そうな表情は消えなかったけれど。
扉が閉まって二人きりになると、背後から掛けられるイヴの声が戸惑っているのが分かった。
「どうしたの?」
「お願い、イヴ。あなたが辛そうにしているのを見ると、私だって悲しいの。あなたが悪く言われてるのも聞きたくない。こんなに素敵な人だって、私、知ってるのに」
「アザリー……」
「大丈夫よ。噂は噂だもの、広がったってなんの証拠にもならないわ――お父様のことだって、経営をされているならそんなものかもしれない。みんな、あなたのことを知らないだけよ。ほら、そこにいないほうが、いろいろ言われてしまうんだと思う……私にできることはない? 一緒にパーティにだって、ううん。どこへでも行くわ」
思いつくままに言葉を紡ぐと彼女の表情が少し和らいだように思えて、私はつい席を立った。大丈夫だと励ましたくて、彼女の近くにまわって手を取る。
(イヴ……)
それが、――あまりにも冷たくて驚いた。彼女が内心に抱えているものが、そのあまりの冷たさに現れているようだった。
突き付けられる。彼女は励まされてなんかいない。むしろ私が追い詰めているんだ。私がこんなフォローをしたところで、そもそも彼女にとっては無意味に近いということが、本能で分かった。
こちらを見たイヴとしばらく視線を合わせると、彼女はやがて目を伏せる。話を振ったことを後悔するくらいの静寂。
そして、彼女の囁くような声。
「ありがとう。そんなことを言われたのは初めてだわ。でもね、証拠ならあるのよ」
「証拠?」
「私よ」
意味がわからないでいるうちに、イヴは私の手にもう一方の手を重ねて包むようにした。それも冷たい。どんなものでも彼女の心を覆いきることはできないような気がした。聞いてくれる、と静かに言われて頷くと、彼女は一呼吸置いてから話してくれた。
「私の父はね、法律に触れるような経営で富を得ているの。そして、父だけじゃない――母も、兄たちも、使用人さえも。私以外の全員が、その不正に加担しているのよ」
「まさか……」
「私の家族は、自分たち以外のことを人間だと思っていない。父は……自分に逆らう役員や、ライバル会社の重役たちを、人を雇って襲わせたこともあるのよ。この前なんて、人が亡くなったわ――あなたが考えてるほど甘くないの」
彼女の告白に息が止まりそうになった。亡くなった? 人を殺したということだろうか。
とても信じられない。噂以上のことが彼女の周りでは実際に起きている。
挨拶回りで見た彼女の父は立派な紳士だったのに。私は彼の礼儀正しさに感動したくらいだったのに。
『いい人の振りしてる奴ほど……』ポーロックの言葉が、今更頭に響き出す。
彼女は震える声で語った。私が手を取っているくらいでは、震えは収まらない。孤高でありながらも堂々としているように見えた彼女のほんとうの姿は、ただ怯える同い年の少女だった。
「こんなことを続けていたら、いずれ告発される。すべてが明らかになる。そうなったら、私も終わりよ。崖に向かって歩いているような人生なの。あなたはそうやって私を庇ってくれるけれど、私はね。こんな状態で社交界を楽しもうなんて――到底、思えないだけなのよ」
彼女の口調はだんだんと焦ったものに変わっていく。この時私はすでにまずいことをしたと思った。
彼女の目の色が、暗く濁って見える。
「イヴ、落ち着いて」
「私は昔から父が正しくないことを知っていた――何年か前、男爵家が人身売買に関わっていたって告発される事件が起きたわ。とんでもない騒ぎになって、その家はみるみる没落していった。見ていられなかったわ。私もこうなるんだと思った――ねえアザリー、私はどうしたらいいの」
息を呑む。アシュウッド男爵だ。私が……いや、お父様の作った組織が起こした変化を目の当たりにしたのは私だけではなかったことを、今まざまざと実感させられる。
私は彼の没落を当然ととらえたけれど、彼女は自分にも起こることだと感じた。
立場が違うんだ。彼女は男爵側――犯罪者側の人間だ。
言葉が出てこない。彼女自身は何もしていないのに、彼女は犯罪者の立場で恐怖に震えている。
(これほどひどいことだったなんて)
「どうしたらいいの……」
もう一度呟く彼女の肩を抱いた。そのまま彼女を抱き締める。でも何も解決するわけがなかった。
彼女の呟きは落ち着くまでどれくらいかかるかわからないような、あまりに頼りない声だった。
打ち明けてくれたことよりも、彼女がずっとひた隠しにしていたものを暴いてしまったようなひどい後悔が何より先に襲ってきた。