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泡沫のアリストクラシー 10

 私はイヴと再び会い、彼女を説得しようとした。

 しかし、彼女の反応は予想していたよりずっと厳しかった。彼女は泣きそうな顔で首を振ったのだ。

「無理よ、アザリー。そんなことは何度も考えたわ。警察に行こうとしたことだってある。でも出来ないの」

「イヴ。だったら、私と一緒に」

「駄目。絶対に駄目よ。確かに私の家族は最低よ。犯罪なんて、許されないわ。でも、それでも……今の家族を失った時のことなんて考えられない」

 もはや彼女は私に対して、あの気高い態度で自分の心を隠すことはしなかった。彼女は私の提案に怯え、何度も何度も首を振った。

 そんな必死な姿を見ていたら、さすがに私でも想像できた。誰が告発するにしたって、彼女は既に犯罪者である家族をみんな失うことになる。その引き金を自分が引くなどという行動は、想像を絶するような苦しいものだ。

 自分が助かる可能性が高いとしても、彼女はそんなことに何の価値も感じていない。

「……だけどこのままじゃ、あなただって……」

「分かってるわ。分かってる……アザリー、私は確かにあなたに話を聞いて欲しかった。味方をしてくれて嬉しかったわ。でも、こんな話をしたかった訳じゃないの」

 打ち明けるんじゃなかった。

 ごめんなさい。忘れて。

 彼女はそんな風に話を無理やり終わらせた――彼女が彼女でなくなってしまったかのようだ。そんな言い方をする彼女自身が一番辛そうで、私はさらに彼女を放っておけなくなっていった。

 この話をしてから、彼女は私の誘いに対して断りの返事をするようになった。そしてまもなく、返事そのものが来なくなってしまった。

 私は焦った。

 彼女の未来を潰したくない。それが何よりの願いなのに。救われてほしいだけなのに。

 追い込んではいけない。モランさんの忠告はしっかり頭の中にあった。

 けれども諦めることができなくて、あと一度だけと思いながらまた彼女に手紙を書いた。正しい人間として生きていってほしいと、心から願う手紙を。

 返事はやっぱり来なくて、どうしようもないのかもしれないと希望を失いかけた頃。

「お嬢様、これを……」

 ルーシーが封筒を持って部屋に入ってきた。そっと差し出された封筒を見た瞬間、私は言葉を失った。それは間違いなくイヴからのものだった。

 彼女は、イヴが屋敷を訪ねてきたと言った。

 彼女は面識のあるルーシーに手紙を託し、どうか開封せずに私へ届けてほしいと頼んで帰ってしまったらしい――ルーシーは迷いつつも、とても只事ではなさそうだったからと彼女の頼みを聞いてくれたのだ。

 ルーシーに心からのお礼を言って、私は中身を確かめた。お義父様に渡すから大丈夫だと言うと、ルーシーは安心したように頷く。私は封筒を大切に控えた。

『覚悟を決めた。ちゃんと話がしたいから、今夜、大橋の下で待ってる。お願い、一人で来て。家族には知られたくない』

 彼女の筆跡はひどく震えていた。屋敷までわざわざ来てくれたことといい、彼女がどれだけ悩み抜いてくれたのかがよく分かる。

 嬉しかった。これで彼女が救われる。

(よかった……)

 彼女は犯罪との縁を断ち、真っ直ぐ生きていこうとしている。

 私の言葉が届いたのだ。

 静かな達成感を感じるとともに、彼女を何としても支えなければならないと強く思う。私は迷う暇もなく、夜に家を抜け出すことを決意した。


 夜、誰もが寝静まった頃合いを見計らって私は起き上がった。ポーロックと会うためにこっそり抜け出していたことが、こんな形で役に立つとは思わなかった――呼吸を整え、裏庭に続く廊下へ滑り込む。

 庭の奥にある裏口から外へ出て夜風が再び頬を撫でたとき、ようやく自分が屋敷を出た実感が湧いてきた。

 家の近くの大橋までは、歩いて十分もかからなかった。夜に一人で出歩くことはほぼないので初めこそ恐怖を感じたけれど、そんなことを言っていられない衝動が私を突き動かした。

 闇への不安に揺れていた心は、橋の下で待つ人影を見てやっと落ち着いた。他に人の気配はない。私が彼女に近付くと、彼女はゆっくりとこちらを見た。

「来てくれたのね、アザリー」

「もちろん。待たせてごめんなさい……でも、どうしてこんなところに?」

 川には薄い霧が掛かっていた。風も冷たく、普段馬車から見える川の様相とは明らかに異なっていた。

 イヴは川の方に静かに目をやった。

「……誰にも、聞かれない場所がいいと思ったの」

 彼女の様子に、私は違和感を覚えた。彼女は決意をしたはずだ。正義の道を行く決意を。でなければ、私の手紙に返事をしたりしなかっただろう。それなのに視界に入る彼女の身体はなんだか強張っている。

 彼女からは何もプラスの感情は読み取れなかったし、辛そうな様子は最後に見たときよりひどくなっている。

「大丈夫?」

 近付こうとすると、彼女はわずかに顔を背けた。明らかにおかしいと思い、私はその肩に触れようとした。――その手を、勢いよく振り払われる。

「触らないで」

「イヴ?」

「大丈夫な訳、ないじゃない。わかってない。わかってないのよ……あなたは……」

 闇の中で、彼女が呟く。もう彼女の表情が髪に隠れて見えない。思わぬことに視界がぐらつきそうになる。

「混乱しているの? 落ち着いて。ちゃんと、話を聞くから……大丈夫よ、イヴ」

 宥めるような声になったと、自分でも分かった。そしてなにかまずいと思った時には、彼女は私を見て首を横に振り、覚悟を決めたように懐からナイフを取り出した。

「……え」

 切先を、私に向ける。

 私は反射で一歩後ずさる。どうして? 頭が真っ白になる。何故、彼女が私にナイフを向けるのだろう。どうして……。

 改めて見た彼女の目はおそろしく冷たかった。状況を理解できない。ただ、闇に光る宝石だけがやけに大きく見えた――宝飾品だ。刃先にも月光が反射して煌めく。本来はただ美しく飾るためだけに存在するはずのナイフを、彼女は両手で力一杯に握りしめている。

 自分の意思でこれを持ち出してきたことは明らかだった。

 私を、殺そうとして。

「どうして……」

「か」

 彼女は震えている。手も、肩も、そして声までも。勢いよく顔が上げられて、初めて彼女が泣いていると気付いた。

「解決してほしいわけじゃないって、い……言ったじゃない。なぜ説得してくるの。あ、あの手紙は何」

「手紙って」

「わ、私が正しくないというの。こんなに悩んで、苦しんできた私が――間違った人間で、か……家族を売ることが正しいって言うの!」

 違う。私は叫ぼうとした。そんなつもりではなかった。彼女の苦しみを否定したかったんじゃない、その逆だ。私は彼女の深い苦しみを知って、彼女を解放したかったからこそ動いたのに。

 言いたいことは山のように浮かぶのに、声になってくれない。自分の身が震えているのがわかった。

 憎悪に満ちた目。

(モランさんの言う通りだった)

 追い込んでしまった。これ以上ないくらい、私は彼女を傷付けてしまった。助けたいだけだったのに。やはり私はやり方を間違えたのだと思った。

 どこから間違えてしまったのだろう?

 彼女は、私にすべてを打ち明けてくれたのに。

 それなのに彼女は追い込まれて、焦って、私に話したことを心から後悔してこんなことをするのだ。私のせいだ。

 だけど、もう、何も出来ない。

「あなたは――正しすぎるのよ、アザリー。だから、だから……!」

 だから、なんだろう。殺すしかないと言うんだろうか。彼女が。私を……。

 何と言えば良いかわからない。何か言わなければ彼女の動きを止められないと分かっていても、私の喉は何も言葉を発してくれない。イヴは恐ろしい形相でナイフを振りかぶった。

 そのとき。

 瞬間――闇の中で、確かに何かが揺らめいた。

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