「――――」
月の光があったから、それが鮮血だと分かった。
一瞬で全てが変わった。変わり果てていた。
私にナイフを振りかぶっていたはずの彼女が、その喉をざっくりと裂かれていた。
私の友達が、悲鳴を上げることもなく死んでいた。
何が起こったのか、まったくわからなかった。あまりにも非現実的な光景に反応することができない。ナイフを取り落とした腕にも、無慈悲に崩れ落ちる体にも。
私の前に立つ人影にも。
闇の中だって見間違えようもない。振り返るまでもない。だから振り返らないで欲しかった。彼だと思いたくない――そんな私を嘲笑うように、彼が振り向く。
「無事だね? お嬢さん」
「……」
彼の完全にいつも通りの声を聞いて、急に現実が私を襲った。瞬きをしても何も状況は変わらない。笑って私を見るポーロック。
そして、地面に潰れている「なにか」。
(…………!)
喉の奥が一気に開いた。絶叫しそうになった私をポーロックが制す。
「やめろ。誰か来たら、僕はそいつのことも殺さなきゃいけないんだよ」
彼の口調は冷たかった。彼が何か得体の知れない化け物のように見えた。助けられただなんて、とても思えない。
叫ばないと分かり、ポーロックは私の様子を見ようと手を伸ばしてきた。本能的にその手を払う。私はきっと彼を睨み付けていた。
目が合う。そこにはもう何の悪意もない。彼は私の憎悪をさらりと受け止めて、それでもなんてことのないような顔をしている。観察するように……。
「……無理もないけどね」
助けてやったのにと怒られないのが逆に怖かった。ポーロックは赤子でも見るような目つきをしている。
その顔には、返り血ひとつない。
「僕が憎いか? 彼女を殺したから? じゃあ彼女が君を殺すのはいいのかい。君は殺されたかったのか。だったら悪いことをしたもんだよ」
ポーロックは軽い口調で言った。頭の中はもう、何も考えられないくらいぐちゃぐちゃだった。
何故こんなことになっているのか、何故彼がここにいるのか、どうして……。
「君が死んだら教授に殺される。僕は自分の身を守ったんだ、何度時間を戻しても何度だって同じことをする。あんたの初めての『お友達』の喉を掻っ切って殺す」
彼は私を諭す。淡々と。
今まで何年も付き合ってきた中で、一度も見た事のないような顔。お前になんて何も見せてこなかった、お前は何も知らされてなんていなかったのだと、そう告げるような冷笑。
変装術。演技力。情報収集。
それだけじゃなかった。彼のことを、何もわかっていなかった。
面倒なのと関わり合いになってたから、ずっと見張ってたよ。彼は手を雑に振った。
「彼女を正義の道に引き込もうとしたけど、できなかった? ――甘えるな。彼女を殺したのはこの僕で、もちろん全責任は僕にある――だけど、彼女を追い詰めたのは君だ。アザリー」
「……」
やっとのことで小さく頷く。そうしないと私の体まで崩れてしまいそうだった。
真面目だねとポーロックはどうでもよさそうに言う。認めたところで何にもならないからだ。
あの子を救うことは、もうできない。
「帰ろう、お嬢さん」
やがてポーロックは囁くように言った。そのあまりに優しい声色が私には刃のように感じられた。息が苦しい。彼はイヴを殺したことを、なんとも思っていない――こんなこと、彼には日常なのだ。だから彼は何も変わらない。私と接することだって、彼にとっては何でもないことだ。
「気にすることはない。結局君には関係のないことで、君は哀れな被害者なんだから」
君は犯罪者じゃない。安心するといい。
殺されそうになって可哀想に。
口調が優しくても、それはこれ以上ないくらい冷めた物言いだった。
彼は私がしたことを、したかったことを、全部知っている。そのうえで、彼はこれほど冷たい言い方をするんだ。なんて残酷なことだろう。彼が、言葉の力を私に教えてくれたのに。
ポーロックは私を誰にも見つからないうちに屋敷まで送り届け、また姿を消した。彼女の遺体を、あんな凄惨な現場を、どうするつもりなのか。彼とこれからどう接すればいいのか。どうしたらいい。何もできない。
闇の中、私は完全にひとりになった。
(救いたかった)
救えなかった。正義の道に引き込むことはできなかった。
言葉を尽くしても駄目だった。私に救いを求めた命が、私のせいで散った。
言葉には力がある。声を上げることは自分を救う武器になると思っていた。彼女は光の下を、正しい秩序のもと歩いていけるはずだと信じていたのに。それだけでは足りなかったのだ。
何かが足りなかった。正義だけでは。絶望とともに世界が色を失っていく。
(正しすぎる、と言った。彼女は、最後に……)
――正義だけじゃ、人は救えない。