(……)
同じようなことは何度かあった。その度に目の前が暗くなるような気がして、いつしか小さな耳鳴りがするようになった。
ただ侯爵夫人の「加護」の力もあって、だんだんと私はなんの疑問も持たれないうちに「社交界デビューしたてで、気まぐれに〈氷の君〉に声を掛けられた哀れな令嬢」として噂を塗り替えられていくことになる。
それで塗り替えられるような、軽い噂だったのだ。
(気分が悪い……)
そして――それはそれで周囲の人間は私に気を遣う必要を失い、イヴのことを悪し様に語り出した。
「きっと耐えきれなくて、自ら失踪されたんでしょう? お友達も出来なくて、お父様もあんなで……」
「でも、見た? あの〈お父様〉。娘を必死に探してる振りをして、他の貴族に取り入ろうとしているらしいわよ」
「あらあら。みっともない。わざとらしい態度が不自然だって、あちこちで言われていてよ」
「娘を見つけるのが、先ではなくって? もしかして、あんまり大事にされていなかったんじゃないでしょうね?」
心臓を貫くような悪意の数々。もう何も聞きたくないと何度も思った。一度自覚した耳鳴りはどんどん酷くなっていき、毎日のように私を苛むようになった。
原因は明らかだった。こんな環境に自分を置いているからだ。
耳鳴りは社交の場、それもイヴの話題になった時にもっとも強くなった。彼女のことを思い出す度に記憶と結び付いて私に痛みを与えた。
私は早く次のどうでもいい話題が流行り、彼女が忘れ去られることを願った。誰にも打ち明けられない、鳴り止まない耳鳴りから逃れることだけを願った。
それでも伯爵令嬢ともあろう立場の者が、一人で家出をするという事態は前代未聞だった。
以前からの悪評も相まって、もうここにいない彼女は令嬢たちからの攻撃を受け続けた――私自身はその標的ではなくても、他人の口調の中に常にある鋭い棘を耳に捉えた。
心にその棘を、毒を、彼女の代わりに受け続けるような日々だった。
でも、受けなければならないとも思っていた。
だって彼女は私のせいで死んだのだ。彼女が攻撃されるのは忍びない。救えなかった分、せめて彼女に向けられる悪意は私が受けなければいけないと。それは私の「責任」だと考えたからだ。
言葉では、彼女のことを知らないと言い。
微笑みを貼り付け、姿勢を正し、初めての友達の魂が冒涜され、尊厳が踏み躙られるのを目の当たりにし続けた。
彼女を殺したも同然の人間として。
うまくやれていると思った。
せめてお義父様にだけは迷惑を掛けてはいけない、掛ける訳にはいかない、その一心でドレスを纏い続けた。自分の保身のために笑い続けた。
眠りにつくときは、私に向けたナイフに反射した月光が瞼の裏に閃いた。
いつでも脳裏にイヴの声が響いた。
そこに耳鳴りが乗るようになって、私は気付いた。
(彼女は、私を許していない……)
耳鳴りは決して鳴り止まなかった。それはいつでも私と共にあり、どこにでもついてきた。
絶対に離さない。絶対に許さない。
その耳鳴りは彼女が命を失ったのと同じくらいの痛みを私に与えるまで、永遠に付き纏うように思われた。
申し訳なさと、罪悪感と、……何故こんなに苦しまなければならないのかと、心臓が痛むような思い。
ふと。
五月蝿い――と、思った。
五月蝿くて、五月蝿くて、たまらない。
どうしてここまで付き纏う?
彼女に向けられる悪意は、私が受けなければいけないと思った。でも……それは思い違いだったのではないのか。
(だってほら。私は、この前も間違えたから)
辛い。辛くて仕方ない。どうして自分がこんなに辛い目に遭っているのか分からなくなってきた。
私は、彼女を傷つけたかった訳じゃない。殺したかった訳でもない。助けたかったんだ。
それなのに。助けようと思っていたのに、彼女が勝手に消えたんじゃないか。全てを台無しにしてしまった。全部。全部。
(……――あの子の、せい……)
そう思った時、ふと周りの音が遠くなるように思えた。そして何か肩の荷が降りたような、軽くなるような感覚がした。私は頭を振って思考を追い出す。
疲れているのかな、と思い、早めに休むことにした。いつしか私は日付の感覚もなくなって、前回なんのパーティに出たのかもわからなくなっていた。
そして、次の朝。ふと目覚めたら、あれほど五月蠅かった耳鳴りが消えていた。
心底、安心した。常に私を糾弾していた気配が消えた。
安堵した。
そしていつもと同じようにベッドを下りようとした時、軋む音がしなかった。
(え)
机を軽く叩く。音がしない。何度も叩く。なんの音もしない。何度も何度も何度も叩いて、無駄だと分かった。
無駄だと分かったら、悪寒が迫り上げた。
静寂。
音が消えている。
世界が消えたのではなかった。私のほうだ。
私の手にした聴力が、消えていた。
私の耳が――まったく、聞こえなくなっていた。
(え?)