何も聞こえない。
そう気付いた瞬間、滝のように考えるべきことが押し寄せた。脳内を駆け巡る。最初に今日の舞踏会のこと。不参加になるのか? 体調不良で誤魔化せるのか。どうやって連絡するんだ。お義父様に迷惑がかかる。まずい。次にルーシーのこと。呼びたくない。呼んだらまた彼女が悲しそうな顔をする。どうする。それから耳鳴りのこと。何だこれ? 聴力を失うなんて聞いてない。どれだけ私を苦しめれば気が済む。これは今だけなのか? 疲れすぎたから? こんなことを考えていなくても少し休んで落ち着けば私の耳はまた音を捉え出すのか? そうじゃなかったらどうする?
――そうじゃなかったらどうする。
――治らなかったら、どうするつもり?
「う……」
そう思った途端、何も見えなくなった。激しい眩暈と吐き気。たまらずしゃがみ込む。
割れるように頭が痛い――両手で頭を抱え込んでも何も意味がなかった。感じたこともないような激痛に耐え切れず、そのまま意識を手放した。
嫌い。憎い。だっておかしいじゃないか。
卑劣な犯罪に手を染める家族を見限ることはできないで、救おうとした人間には牙を向いた。
殺そうとした。
宝飾品のナイフを持ち出して殺そうとするくらい思い切ることはできるのに、最も身近な罪は許容した。
最後には自分の殺人まで正当化しようとした。
あれだけ苦しんだ罪悪感が、いつの間にか軽蔑に姿を変えていく。彼女は粛正されたのだ。
あれは、仕方なかったんだ。
――目を開けたら、堪らずと抱き締められた。
お義父様だ。お義父様、ごめんなさい、と思った。罪悪感と安心感が鬩ぎ合う。
声は出なかった。
あれほど自在になった喉は、今やまったく言うことを聞いてくれない。説明するのが不可能なほど慣れ切っていたのに、声の出し方が分からないのだ。
おかしいと思ったのか、ゆっくりとお義父様の身体が離れる。自分のベッドに寝かされていたようだった。目で見るまで……目で見て確かにそうだと思えるまで時間が掛かったけれど。
お義父様の後ろに控えていたルーシーが何かをさかんに言ってくれているのが見える。
何を言っているのかは……。
お義父様は私と丁寧に目を合わせて何かを口にした。お義父様の格好は明らかに舞踏会帰りのもの。私は朧げながらも今朝自分が倒れたことを思い出した。
きっとお義父様は私の代わりに舞踏会へ出席したんだ、と思った。
そして、恐らくは帰宅してからもずっと私のそばに付いていてくれたのだろう。
「……」
思ったとしたって、何も口にできない。お義父様はそれからも私に二、三話しかけ――私は、やっと首を横に振った。
時が止まった。そして、それで充分だった。
まったく声を発することのない私に何が起こったのかはすぐに悟られた。
お義父様がとても、悲しい顔をした。自分を責めているような、まるで痛みに耐えてでもいるような。
それは一生忘れられないだろうと思うくらい、見ているこちらが辛くなる瞳だった。
ルーシーが視界の端に見えている。きっと彼女も悲しそうな顔をしているに違いなかった。胸が潰れそうな思いがして、私は目を逸らしてしまう。
「〈本当にすまない、アズ〉」
お義父様はこちらが申し訳なくなるくらい私に謝った。体調が悪いこと――あの耳鳴りのことを隠していたのは私だ。お義父様が悪いことなど何もない。
でも、お義父様が手話を扱う姿を見てどうしようもなく悲しくなって、結局大したことは言えなかった。
頭痛は収まった。眩暈も吐き気ももう消えている。
耳鳴りも――当然、姿を消した。順序が逆とは言え、私から聴力を奪って満足したかのように思えてならない。
イヴの話題が多すぎて辛くなったと告げた私に、お義父様は優しく頷いた。
「〈当然のことだ。予想できることだったんだ。私がもっと早く気付けていれば……〉」
お義父様はいったい何をすれば怒るのかというくらい、私のことを責めない。それが辛いと感じたこともあったけれど、聴力を再び失った身としては正直ありがたくもあった。
私は久々に手話で語り、その所作をかなりの精度でまだ覚えていることに安堵した。
「〈今日は、代わりに出席を?〉」
「〈ああ。社交シーズンで令嬢が疲れて体調を崩すことは珍しくないよ。今日は私が出たし、後の予定には私から詫び状を出そう。だから、ひとまずゆっくりお休み。耳のことはちゃんと診てもらうから、心配しなくていい〉」
大きな手が、とても大切なものに触れるように私の頭を撫でる。私はその手元を見て、目を見て、また涙が溢れそうになるのを抑えた。