ローレンス様へお義父様が書いた手紙の返事は、実に早かった。了承してくれたよ、とお義父様に言われて私は内心恐々とした。これを受けてひとまずお父様を屋敷へ呼ぶことになり、久々の対面を果たすことになった。
怖いやら申し訳ないやらで、外で待っていることも出来なかった。お父様がリビングに入ってくる。目を伏せたままでいた私の頭に、優しく手が乗った。
(お父様……)
きっとポーロックから全てを聞いているのだろう。モランさんにも話が伝わっているのかもしれない。
忠告を与えた娘がまざまざ失敗したことを、迷惑を掛けてしまったことを、苦々しく思っているはずだ。そう思うと尚更顔が上げられない。
私は決して急かされなかった。いつまでもこうしていられない――そう自分を奮い立たせるためだけの時間は長過ぎるくらいに与えられた。
運ばれてきた紅茶の香りがした。私の好きな紅茶だ。
(……ありがとう、ルーシー)
私は顔を上げた。
正面に座るお父様は、いつもの冷静な表情をしていた。確かに心配そうな色の宿った真摯な表情。怒ったふうでもなく、当たり前のようにその手が動く。私が大好きだった規律的な動き方は変わっていなかった。
「〈これからのことだが〉」
「〈はい〉」
「〈ローレンスに頼るのは良い考えだと思う。あれは素直すぎるところもあるが、わたしの知る中でもっとも誠実な男だ〉」
「〈……素晴らしいことです。でも私、ローレンス様にお会いしたことがないんですよ〉」
「〈赤子の時に、一度会ってはいる。行くまでは不安だろうが、会えば分かる。心配しなくていい〉」
お義父様ならともかく、お父様までもがここまで手放しで人を褒めるのは珍しいことだった。ローレンスは手話ができないから、ルーシーについてきてもらうといいと言われて少し心が落ち着いた。
(ルーシーなら、きっと上手く間に入ってくれるわ。上手く言葉にできないことも伝えてくれる……)
そんなことを考え、また情けなくなってきた。彼女は本当によく気の付く素晴らしい女性だけれど、だからといっていつまでも甘える訳にはいかないのに。
けれども、ほぼ初対面の夫婦のもとへ――恐れ多くも自分の体調を回復させるためだけに! ――向かうなどという真似には、ぜひ相談相手になってくれる味方がいて欲しいところだった。感謝してもしきれない。
「〈アザリー〉」
ルーシーのことをつい考えていた私は、お父様の呼び掛けに一瞬遅れて気が付いた。慌てて頷くと、お父様はなんとなく姿勢を正したように見えた。
「〈……ローレンスには、組織について何も話していない。そして、それはこれからも変わらない〉」
私の弾みかけていた心は、途端に緊張感をはらんだ。何も、と言われてしまうと、この後に言われることがだいたい分かってしまう。
「〈ローレンスは歪な社会からも早々に離れ、自分の世界のある男だ。これからも組織のことなど知らずに、生涯を終えて欲しいと思っている〉」
言葉は打ち切られたけれど、充分に伝わった。私はお父様も目を合わせて手を軽く持ち上げる。
「〈声も出ませんし、組織について手話で伝えるようなことは絶対にしません〉」
果たして返ってきた反応は、何故か苦笑いだった。お父様は軽く肩をすくめる。先日のお義父様のリアクションと同じである。
「〈有難いが、それより――お前も組織のことなど忘れて過ごせるし、そうするべきだと言いたかった〉」
「〈え……〉」
つい動揺した私に、お父様は続けた。
本来、そして今からでも、お前がそう生きられるように。
私は一度頷いた。それから、自分の中に確かな違和感が溢れ出てくる。「本来そう生きられる」?
「〈どうした?〉」
「〈いいえ。ありがとうございます。アダム様〉」
モランさんとの出会いと、ユアンの人身売買にかかる事件。
ポーロックとの出会いと、イヴの死。
その二つの事件は、二つといえども私の精神に大きすぎる影響を与えている。それぞれで目にし、耳にし、実感した「組織」の姿。魔法のような犯罪と、社会を大きく動かした力。それらは私にとってもはや人生と切り離せるようなものではないとさえ思っていた。
でも――この様子ではお父様はまだ、私が組織に関わるべきではないと思っているようだ。
お父様の気持ちは、もちろんわかる。己惚れる訳でもないけれど、子供に犯罪組織と関わってほしいなんて思う親はいないはず。ありがたいことであり、紛れもない愛情だ。
だけどお父様は、私がまだ戻れると思っている。お父様にとって私は子供だから。
二人と共に接してきた事件は、ただ私が巻き込まれただけのものだと考えているんだ。
運が悪かったと。タイミングが悪かったと。
失敗し、私の心の傷となってしまったのだと。
私がまだ、光の下を歩けると……。
(本当に?)
お父様の言うことはいつも正しいと思うのに、このときばかりは反論したいと思ってしまった。私の経験は異常なもの。経験する前には戻れないような類のものだ。だって組織の力がなければ、私は今生きてすらいない。
それなのに。
私の表情が暗くなったことに気付いてか、お父様は優しい手振りで続けた。
「〈若いお前にポーロックが精神的なショックを与えたことを、申し訳なく思っている。お前が背負うようなものではなかった。自分を責めないでくれ〉」
耳のことは心因性のものと聞いた。バースで心が癒えることを願っている。
そんな愛情深い言葉に表面上は微笑んだけれど、どうしようもない違和感は消えない。
私はお父様の微笑みを前にした。昔からずっと大好きな人。ずっと愛しい存在。そして、犯罪組織を率いる人……。
言われなくても、私は。イヴが死んだこと、仕方なかったと思い始めているんです。打ち明けたらきっと驚かせる。そう気付いた私は、静かに頷くだけに留めた。芽生え始めた決意を、せめてまだ悟られないようにするために。