バースへ向けた列車は、午前十一時に出発した。
ローレンス様のお仕事は、そのバース駅の駅長だという。対面は夜になるのではというようなことをお義父様は言っていた。緊張する。
いつまでの滞在になるかわからないのに、ルーシーは私に同行することを了承してくれた。その分他の使用人たちに引き継ぐことが多かったようで、彼女はここ最近ずっと忙しそうにしていた。
「〈改めてごめんね、ルーシー。ついてきてもらって……〉」
「〈とんでもない。私、一等車両に乗れるだなんて思っておりませんでしたよ。お嬢様のお陰です〉」
「〈お義父様のお陰よ〉」
バースまでは一時間半ほど。お義父様は私とルーシーのために一等車両を取ってくれた――手話で会話する私たちのためだと分かって申し訳ない気持ちになっていたけれど、ルーシーが喜んでいるので少し慰められた。
ルーシーに助けてもらいながら一等車両に乗り込んで他者の視線を気にしなくてもよくなると、やっと深呼吸することができた。
「〈ソファが柔らかいですね、お嬢様〉」
「〈そうね……ゆっくりしていてね。ルーシー〉」
ルーシーは天井や壁の装飾、カーテンの柄などにそれぞれ注目しては喜んでみせた。なんだか彼女が幼く見えて、私も微笑みが溢れる。
「〈でも、まだ緊張するわ。どうしよう〉」
「〈あれだけラインハルト様が大丈夫だと言われるのですから、心配はいらないのではありませんか?〉」
きょとんと首を傾げられて、私は首を横に振る。お義父様が――今朝出発するまでずっと――大丈夫だと言っても、ほぼ初対面だという事実は変わらない。
それに、言葉を交わすこともできないのに。せめて振る舞い方では絶対に失礼のないようにしないといけない。
「〈大丈夫ですよ〉」
「〈ルーシーまで、そうやって……〉」
私の小さな非難くらいでは彼女は動じない。彼女はにこにこと微笑んで続ける。
「〈私の同行をお願いしたときにも、快く受け入れてくださったのですよ。お嬢様がもっとも過ごしやすい形がよいと。そんな方が、お嬢様を嫌うはずがありません〉」
理屈では分かるけれど、納得はできない。結局そんな複雑な気持ちのままぐるぐると考えているうち列車はバースに着いてしまった。ずっと楽しそうにしてくれているルーシーが唯一の救いで、私はなるべく悪い想像をしないようにした。
ルーシーに導かれ、列車を降りる。
そのとき。
目の前に、お父様がいた。
(違う)
お父様がこんなところにいるわけがない。それに、よく見ると違う。なんとなく目元が若く、凪いで穏やかな顔つきだ。何よりその人は駅員の格好をしていた。
(えっと)
思考が追いつかない。ルーシーは何事か明るい様子で彼に語り掛け、彼が穏やかそのものといった感じで私に優しい視線を向けた。
目が合い微笑まれる。それから、深い礼。
(……ローレンス様、だ)
彼の所作にはあらゆるところに人好きのする柔らかな感じがあった。会えばわかる――お父様がそんな風に言っていたのも頷ける。
二人の父に確かに似ているのに、全然違う。鼻筋の通った輪郭や、少し垂れた優しげな目元。そんなところに共通点を見出すが、それ以上に彼には「善良さ」と「親しみやすさ」が滲んでいる。こんなに明らかに善良な人を、私は見たことがない。
声が出ないことが本当に悔やまれる。もし自在に話せたら、私も礼を尽くした言葉を返せるのに――ついそんなことまで考えた。それでも彼の瞳はその誠実さの色だけで私達への歓迎を伝えてくれた。
「〈お嬢様、ローレンス様でございます。私たちの到着を待っていてくださったのですね〉」
お義父様から私たちの乗る電車を聞いていたのだろうか? ローレンス様は微笑みをたたえたまま私たちといくらかの会話を交わした。
「〈アザリー・グレイス・モリアーティです。お会いできて嬉しいです。この度はありがとうございます〉」
ローレンス様は私たちのために、お仕事を抜けてお屋敷まで送ってくれるらしい。気遣いの数々に恐れ多いという気持ちが溢れてくる。
手話が伝わらないので、私は微笑んだり深く礼をすることでしか感情を伝える術がない。ルーシーに丁重なお礼を伝えてと告げ、私は周囲を見回した。
思っていたより大きな駅だ。高い天井に木の梁が走る駅舎は、ロンドンの喧騒とは違う優雅さを感じさせた。
窓越しには緩やかに丘が続いているのが見える――柔らかな光が差し込み、どこか静かで穏やかな空気が漂っている。
療養地と聞いていたので観光客の賑やかさは少し意外だったが、それもどこか心地よい。近くを歩く旅行者たちの鞄から漂う革の香りや彼らの談笑している様子に、異国を訪れたような感じがする。
初めて訪れる綺麗に整えられた駅は、遠くに来たような開放感を私に与えた。
見惚れてしまった。そう思って慌てて視線を戻すと、ローレンス様がにこにこと私を見ていた。まずい。
「〈ごめんなさい。素敵な駅だと思って〉」
ルーシーの訳を聞いて、ローレンス様は嬉しそうな顔をした――何の疑いようもない、本当に嬉しそうな顔だ。
「〈嬉しいな。……アザリーさん。緊張しているだろうけど、会えてとても光栄だ。バースへようこそ〉」
彼の表情は明るい自信に溢れていた。彼はこういう時に私が言われがちな、「手話ができなくて」といったようなことを一切言わなかった。
真っ直ぐな瞳には、私との意思疎通の方法にはこだわらないということ。そんなものがなくても気持ちは伝わるという、確固たる意志が見える。
「〈ありがとうございます〉」
微笑みを交わすと、それだけで雰囲気が軽くなる。ローレンス様は私たちの間に立つと、左右を見渡して「〈混雑していますからね。ゆっくり行きましょう〉」と言って歩き始めた。私たちの荷物を軽々と受け取って……。ルーシーが慌てて荷物を引き取ろうとし、ローレンス様が朗らかに笑ってそれを制す。
その姿に、穏やかな中にも頼もしさを感じる。どうしてこの人を見ると、こんなに安心するのだろう? 緊張が少しずつ優しい空気の中に溶け込んでいくようだ。
導かれるまま駅の出口に向かうと、外から明るい陽光が差し込んでいた。
扉を抜けた瞬間、ひんやりとした空気が顔に触れる。バースはロンドンよりも少し冷たいけれど、清々しい空気に満ちていた。