お屋敷は本当に駅の近くだった。
手入れの行き届いた石造りの建物は、懐かしささえ感じるような温かみがある。控えめながら季節の花で彩られた庭園も美しかった。
いつでも駅へ駆け付けられるよう家も近くに建てたのです。そう訳してくれるルーシーの手つきも、彼女の感動に影響を受けてか誇らしげだ。
お屋敷へ入ると、ローレンス様の妻であるアリス様がにこやかに私を出迎えてくれた。ローレンス様と同い年くらいの、とても上品な人だ――でも浮かべた笑顔は愛らしくて、どこか少女のような雰囲気もある。
「〈こんにちは〉」
玄関で彼女がそんなふうに手を動かしたので、私は驚いた。「〈こんにちは〉」と応じると、もう一度「〈こんにちは〉」と返ってきた。
(ん?)
アリス様がにこにこしたまま何事かを言い、ルーシーが笑った。
「〈これしか出来ないの、と〉」
そんな言葉に私も思わず笑みが溢れる。手話を使う子供が来るからと、きっと学んでくれたのだ。知ろうとしてくれた、そのことがとても嬉しい。温かな気持ちを抱えて、深い礼を返した。
顔を上げた後、ローレンス様はアリス様と言葉を交わした。その時のローレンス様の目の優しいことといったら、二人の間にどれだけ深い愛情があるか一目でわかるほどだった。ローレンス様が去るときのアリス様も、これではとても仕事に戻れないだろうと思えるほどかわいらしい表情をしていた。
中へどうぞ。さぞ疲れたでしょう。アリス様がそう言いながら私たちを案内してくれた屋敷の中は、外観と同じように温かみに満ちていた。
一度見ただけでも、アンティークのキャビネットや椅子に施された装飾などの調度品から慎ましさと上質さがよくわかった。どこか穏やかな静寂が漂っているので、初めて来たにもかかわらず緊張はすぐに解けてしまう。
(なんだか、落ち着く……)
この家の中には家族の穏やかな暮らしがそのまま染み込んでいるようだった。ローレンス様とアリス様には十五歳になる息子さんがいるそうだが、全寮制の学校に通っていて不在にしているという。
「〈だから淋しいと思っていたんです。素敵なお二人が来てくれて、嬉しいわ〉」
アリス様とローレンス様の微笑みはどこか似ていた。互いに惹かれ合って結婚したことがよくわかる。お義父様が言っていた、二人の邪魔をしたくない――という言葉に、私は今更ながらに深く納得した。
私たちに貸してもらえるという部屋はとても広かった。中に柔らかそうなベッドが二つ。本当は二部屋用意しようと思ったのだけれど、手話のことがあるからとアリス様は控えめに微笑んだ。
夕食の準備も手伝わなくていいと言われてしまい、私とルーシーはひとまず、ミニテーブルを挟んだソファにそれぞれ座った。
「〈お嬢様。とっても素敵なご夫婦ですね〉」
ルーシーが得意げに言うので、私は苦笑せざるを得なかった。お二人の様子は恐る恐る予想していたその何倍にも温かいものだった。嫌がっているに違いないなどと思っていたのが申し訳なくなるくらい。
「〈明日からは、絶対、ちゃんとお手伝いするわ〉」
「〈お嬢様のお仕事は、ゆっくり休むことです〉」
ルーシーが途端に厳しい表情になったので、私はつい笑ってしまった。穏やかな時間。ルーシーと話していれば、嫌なことは忘れられる。一人にならなければ、あの惨劇を思い出さずに済む……。
ストレスを強く受け続けたという私の心をまた穏やかな空気が包んで、不安なものから私を遠ざけていくような――なんとなくふわふわとした気持ちになった。
ローレンス様は、夕食の時間帯にお屋敷へ戻ってきた。
二人暮らしなので、お屋敷には使用人がいないとのことだった。アリス様が一人で作ったという料理は、その香りだけでも心をくすぐった。
新鮮な野菜がごろごろと入った具沢山のポタージュ。これはローレンス様の大好物らしく、彼が喜んでいるのが見るだけで分かった。
地元の農園で採れたばかりのものを使ったというだけあって、新鮮さが口いっぱいに広がる――それにコンソメの深い香りと、バター、ローリエのかすかな香りに家庭的な懐かしさすら覚えた。
料理上手なルーシーも感動していて、二人で何やら盛り上がっている……。作り方についてだろうか? 楽しそうにしている表情を見ると、私も幸せな気持ちになる。
(ルーシー、アリス様と仲良くなれそうだわ)
通訳のためだけに屋敷を離れてついてきてもらうことを、ずっと申し訳ないと思っていた。彼女にも何か楽しみがあってほしい、そんな願いがどうやら叶いそうだ。
美味しい料理と和やかな空気に癒されていると、ローレンス様がふと私を見た。視線で応じると彼は少し迷ったような間の後、空中で何かを書くような仕草をする。それから、首を傾げた。
(筆談は大丈夫?)
大きく頷くと、ローレンス様はほっとしたように笑った。それから自然と二人の方を見る。
声は聞こえなくても、ルーシーとアリス様の盛り上がりようは察せられるところだ。きっと食事後も話すことはたくさんあるだろう。
彼が再びこちらを見た。頷く。私も頷き返す。
何の手段を使った訳でもないけれど、私とローレンス様は、食事の後に少し筆談しようという約束を交わすことができたのだ――穏やかな意思疎通の成功に、私達はつい微笑み合った。