声が出た時、私は驚かなかった。むしろ、それが当然だと思えた。ぱっと目の前が明るくなった感覚とともに私の耳は世界の音を拾い出し、喉は思い通りに声を発することができるようになっていた。
侯爵夫人からの手紙は私の力となってくれた。
私をお義父様とアイラ様の娘だと信じているルーシーはこの手紙を先に読んだところで何とも思わないだろうけれども、私は違う。
確信とともに前を向くことができるようになった。
罪悪感はない。だって、二人の父が許している。二人は犯罪を許せずにあの組織を作った。私が秩序を重んじるよう言い聞かせられて育ったのも当然のことだ――アイラ様の犠牲を是とすることは、二人の父がもうやっていることだ。
私は手紙が直接の要因と万一にも思われないために、朝起きたら症状が治っていたかのように装った。
「ルーシー! ルーシー、聞いて。治ったわ!」
「お嬢様!」
ルーシーは最初にそうであったときのように、また大いに感動してくれた。ただ、私の聴力の消失が社交界で受けたストレスによる一時的なものだったという背景が彼女をすぐに落ち着かせてくれた。元凶から離れればそれほど長く静養を要するものではなかったのだろう、と納得してくれたのだ。
でもきっと真実は違う。
きっと私が音を失ったのは現実逃避だった。その現実が逃避すべきものでないとわかったから、こうして戻ったのだ。
二人でリビングに降りていくと、ローレンス様とアリス様がもう揃っていた。二月近い滞在を経て、その光景にももう慣れていたけれど――今日はやっと、直接挨拶ができる。
「おはようございます!」
何も忘れていない、今まで通りだ。親しんだ自分の声。それを聞き届けて、アリス様が手にしていた木のトレイを取り落とした――ごとん、と床が鳴る。何も乗っていなくてよかった……。ローレンス様がそれを慌てて拾い上げてから、ゆっくりとこちらを見る。
「……アザリー?」
「おかげさまで、声が出るようになったんです。ありがとうございます」
「アザリー。本当に、本当に治ったのね!」
アリス様が感極まったように歩み寄ってきて、私を抱きしめた。二人の声は想像していた以上に優しい。
音が聞こえるようになると、この家が持つ雰囲気もより一層感じられるような気がした。スープを温めてくれているのであろう鍋が立てる音も、ローレンス様が手にした食器から鳴る涼やかな音も、私を安心させる。
リビングにはこれ以上ないくらいの幸せな空気が流れたけれど、私の心のうちには今までとは決定的に違う感情も芽生えていた。
治ったからといって、すぐに出ていくなんて淋しいとアリス様は涙目になった。
私の回復については、ローレンス様がお義父様にすぐ報告してくれたようだが――それとは別に、彼はよければもう少しここにいてくれないかと言ってくれた。
彼自身がそう思ってくれたなら嬉しいし、妻のことを気にかけているのも明らかだった。今までに受けた親切に何も返せていない私は、当然その誘いを受け入れることにした。
お義父様からは、良い時間を過ごせていて何よりだという手紙が来た。
私も、返事を書いた。
帰ったら、お話したいことがあります、と。
「アザリー、お買い物に行きましょう」
アリス様に喜々として誘われ、私はルーシーに家を任せて彼女と街に出た。
バースの街は観光向きということもあって、綺麗なお店がたくさん並んでいる。アリス様に街を紹介してもらいながら、私たちは新しい服や食器を探し歩いた。
「バースはいいところでしょ」
「はい、とっても。アリス様が、バースに住みたいと言ったんですか?」
「そうよ、ローレンスと結婚したときね。……私、前はロンドンのレストランで働いていたの」
「聞きました。ローレンス様の一目惚れだったって」
私が言うと、アリス様はまたかわいらしく笑った。
「ロンドンって、危なかったのよ。事件も多くてね。あなたもロンドンに戻るんでしょう? お父様がそばにいらっしゃるとしても、私、心配してるの」
ローレンスに言ったら怒られちゃうけどね。そんな風に声を潜める姿も愛らしく、私は気遣いに感謝した。
アリス様が言うように、バースの街にはロンドンのように危ない通りなどがあまりないように思われた。
貴族の影響も少ない平和な街。ずっとここで暮らしていけるアリス様は、とても幸せなのだと思う。
でも……。
ふとアリス様が真剣に食器を選び始めたので、私も少し近くを見て回ることにした。綺麗に整頓された雑貨屋の中には若い人たちが何人もいて、自然で明るい雰囲気がある。
(こういうのも、いいな)
「あー、そういうのもいいよね」
何気なく目についたグラスを手に取ったとき、隣に来た若い男性が急に声を掛けてきた。
驚いてそちらを見ると、まったく見覚えのない顔である……でもなんだかにやにやと上がった口角をみとめたら、私が固まっていたのは数秒だった。
「……ポーロックね」
「あれ。よく分かったね、お嬢さん」
彼は観光客風の、軽い若者みたいな格好をしていた。いつだったか年上と言っていたが、結局この人は何歳なんだろう?
「治ったっていうから様子を見にきてあげたよ。大丈夫?」
「大丈夫よ。……あの時は、ごめんなさい。ポーロック」
「は? 何が?」
「不用心だったわ。あなたにあんなことをさせてしまって、悪かったと思ってた」
彼に言ったことは、何度も考えたことだったのでスムーズに口をついた。私の言葉を聞いたポーロックは、毒気を抜かれたような変な顔をする。
「なあに? その顔」
「どうしたんだい。意外なことを言うもんだ」
ポーロックはすぐにまたミステリアスな微笑みを浮かべた。私は黙って首を振る。
「別に怒ってないさ。あの時のことだって、今となっちゃ曖昧だ――僕は忙しいからね」
でもお嬢さんは言いたいことがありそうだから、また向こうで会おう。
ポーロックは変わらない明瞭な発声で言い、別れの挨拶のように頭を軽く下げた――別れるには早くないかと思った瞬間、アリス様の声がする。
「アザリー。ここにいたの」
「アリス様」
「ごめんなさい、夢中で見ちゃった。誰かと話してた? 店員さん?」
「いえ……」
駆け寄ってきたアリス様に返事をしてから振り返ると、当然彼はもうそこにいなかった。
「話しかけられたんですけど、人違いだったみたいです。観光地ですものね」
私が言うと、アリス様はよくあることよと笑う。
ポーロックとの和解は思っていたより呆気なかった。人違いとは失礼だな、と文句を言う声がどこからか聞こえてきそうだった。