私は結局、三ヶ月いっぱいローレンス様のお屋敷に滞在させてもらった。もっといて欲しいと言うアリス様をローレンス様が宥める様子はたいそう微笑ましかった。
「本当にお世話になりました、お二人とも」
「社交界に戻っても、今度は無理をしないように。また体調を崩してはいけないからね」
ローレンス様は最後まで私を優しく見守り続けてくれた。またいつでもおいでと言われ、私はこれからも続く穏やかな関係を築けたことを嬉しく思った。
前は、上手くいかなかった。
もうあんな経験はしたくない――正しい道を歩いていきたい。
ルーシーもアリス様と友人になれたようで、また手紙を送ると言い合っていた。帰りの列車の中でも彼女は楽しそうにアリス様の話をした。
バースへ向けた列車に乗ったときのことを思い出す。あのときは緊張していて、ろくに車内の様子を見ることもできていなかった。
今はルーシーがはしゃいでいた装飾も美しいと思えるし、ソファの柔らかさにも感じるのは不安ではなく純粋な幸福だ。
「行きの列車じゃ会話ができなくて申し訳なかったから、治ってよかったわ」
「お嬢様。私はお嬢様と一緒にいられるだけで楽しいのですよ」
「……ありがとう。もうこんなこと、ないようにするから」
お義父様と話す前に、ポーロックと和解できたことは幸運だった。相変わらずの神出鬼没さには驚いたけれど、私はもう彼のしたことを怖いと思わなくなっている。
彼は私を守ってくれたのだ。
犯罪者の手から。
イヴのことももう曖昧だと言っていた、彼の気持ちがなんとなく分かる。もちろん私はまだ何も為した訳ではないけれど、彼のように犯罪者を多数罰してきていたら、いちいち心を動かされることもないのかもしれない……。
「ラインハルト様もきっとお喜びになるでしょうね。今日はゆっくりお話できるはずです」
「ルーシーもゆっくり休める?」
「それは、屋敷がどうなっているか次第ですね」
屋敷の中ではベテランなほうである彼女がそんな風に冗談めかすと、妙なすごみがあった。
私はつい笑ってしまって、それから二人で微笑みあったのだった。
声を手にして屋敷に戻るのは二回目だ。みんなはもちろん温かく迎えてくれたけれど、戻る身としては少し気まずい――使用人たちと話すにも、もうこんなことはないようにする、とルーシーに言ったことを繰り返してしまった。
「アズ」
屋敷に着いたのはまだ太陽も高い頃だったけれど、リビングにはすでにお義父様がいた。
「お義父様、どうして?」
「どうしてって、アズが帰る日を教えてくれたんじゃないか」
平然とした様子を見るに、どうやらお仕事を抜けるかなにかしてくれたようだ……。私は恐れ多さについ目を逸らした。
「治って何よりだよ。調子はもういいのかい?」
「はい。ずいぶん長くお邪魔してしまいました」
「ローレンスはいいやつだっただろう」
お義父様はどこか誇らしげに微笑んだ。本当に、と私も頷く。久々でも自然に言葉を交わせるのが嬉しく、それと同時に緊張感がじんわりと私を不安にさせた。
アイラ様のこと。話したいことがあると手紙にも書いたから、お義父様も分かっているはずだった。だけど、こんなに温かい空気を壊してしまうのももったいなく思えてしまう。
迷っていると、お義父様が可笑しそうに言った。
「だいたいの見当はつくんだけどね」
にこにことしながらお義父様は立ち上がり、ルーシーを呼んだ。現れた彼女はなにか疲れた様子だ。
「ルーシー、どうしたの」
「色々やることがありそうですよ、お嬢様。どうされましたか?」
「アズと少々大事な話をしたいのだが、人払いはお願いできるかな?」
「そう仰らずとも、誰一人逃したりしませんよ」
ルーシーが何か怖いことを言っている。確かに三ヶ月屋敷を空けたが、屋敷の中がひどいことになっているとは全く思わない。でも、彼女は気になるのだろうか……。
目を爛々とさせたルーシーに、「じゃあ頼んだよ」なんて余裕で微笑んでお義父様は私を呼んだ。
「いつも同じ部屋ではつまらないだろう。たまには違うところにしようか」
お義父様がそんなことを言うので外にでも出るのかと思ったら、昇る階段がいつもより一つ少ないだけだった。
「ここって……」
目の前の背中が立ち止まったのは、お父様の私室だ。私は記憶の限り入ったことがない。お父様がこちらに帰ってきたときのための部屋だけれど、そういう時でも基本リビングで過ごすのでほとんど使っていないだろう。
「入ってはいけないのではありませんか?」
「見られて困るものは置いていないと言っていたよ。薄情なことだ」
気安い感じで言い、お義父様は扉を開けてしまった。作りとしては他の部屋とさほど変わるわけでもない、シンプルなもの。薄目ながらもほとんど物がないことをみとめて、私も一緒に部屋に入った。
上質なソファも、ベッドも、綺麗に整頓されてほとんど新品同様だ。誰かがすっかり居なくなってしまった後のような部屋のありようは少し切なくなるくらい。私は少しのいづらさから口を開いた。
「えっと……ルーシー、すごく張り切っていましたね」
「君が言語を手にしてからは、通訳がメインの仕事ではなくなったからね。頼りになるよ」
まだ言葉が続く気がしたけれど、お義父様はソファを勧めた。躊躇いつつ私が座ったのを見て、微笑みが私に向けられる。
「ベテランの彼女でも、アイラのことを知らないんだ。君が情報を得る機会はほぼなかっただろう」
「……」
「その話をしたいんじゃないのかな」
お義父様のことが、ときどき別人のように見えることがあった。
たとえば社交界。たとえばモランさんと話しているとき。いつも私に対して向ける甘やかな視線ではなくて、何か思惑を孕んだような憂いのある目。
そしてそれは今もそうだった。
硬直する私を確認したのか、お義父様もゆっくりと向かいのソファに腰を下ろす。
「お義父様……」
試されていると、直感的に思った。
この人も「組織」の一員としての自覚を持っているのだと、このときになって察せられる。お義父様は確かに私を愛していながら、普段は見せない顔も持っている。
私も、きっとそうであるように。
「アイラ様を殺しましたか?」
その問いを口にするとき、私はお義父様の目をまっすぐ見ることができた。視界の中の口元が、わずかに上がる。
「ああ」
答えは短かった。ゆっくりと頷くその姿はまったくいつも通りで、当然のことと言わんばかりだ。
「まだ組織は中途半端な状態だったが、協力してくれる部下はいた。私たちの、最初の完全犯罪だ」
部下。最初の完全犯罪。
推測が全て合っていたことを確信する。
「初対面に近い君に、身内としての親愛の情を伝えたいとき――ローレンスなら、アイラの話をしただろう。丁度いい話題だからね」
「……予想されていましたか?」
「もちろん。だが、期待以上だったな」
美しい瞳は静かに揺れていた。何を言えばいいかわからず、私はしばらく沈黙する。
部屋の中で、時間が止まったかのようだった。
「――私は、昔から貴族というものが嫌いでね」
永遠とも感じられた間の後で、形のよい唇がそっと動いた。
昔話だ。