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春嵐 02

 銀行の応接室は、シンプルながらも上流層の顧客のためによく考えられたであろう丁寧な作りだった。まさか取引をするために来たわけでもないのに、どうしてこんな部屋を用意してくれるのだろう?

 それに、何故ベネット様が直々に案内を?

 そんな疑問は、重厚な扉が閉じられて空間が閉鎖されるとすぐに解決した。

 お父様が――珍しくも、彼に穏やかな微笑みを向けたのだ。

「ヴィクター。順調にやっているようだな」

「恐れ入ります」

 ベネット様も、名前で呼ばれてもいくらかリラックスした様子で応じたのを見て、私は驚いた。思わず二人を交互に見てしまった私を見て、お父様は静かに続けた。

「彼はわたしの教え子なんだ」

「え……」

「アザリー様、こちらへ」

 自分のことなどどうでもいいと言いたげに、ベネット様は私に手を差し出した。ついその手を取ると温かさが伝わってきて、なんとなくたじろいでしまう――彼はそのまま椅子まで私をエスコートしてくれた。

 お父様の言葉を受けて緩んだ雰囲気も相まって、冷淡な感じさえ受けていた彼の印象が自分の中で変わるのを感じた。

「……どうしました?」

「いえ」

 眼鏡越しに、彼と視線が合う。顔が近い――全てを見透かされそうな色素の薄い瞳から、私はつい目を逸らしてしまった。

「ヴィクター。まだ早い」

「え?」

 私の問い掛けは無視され、ベネット様は「失礼しました」としれっと答えた。

 早いって――何が早いんだ。

 お父様が席に着くと、ベネット様は当然のようにその横に座った。まさか彼が同席すると思っていなかった私はさらに驚く。

「アザリー、ヴィクターのことをどこで知った」

 お父様は彼の存在を特に問題にしないままそんな風に問いかけてくる。内心まったくそれどころではなかったが、答えないわけにもいかない。

「お父様の指定された銀行が分からなかったので、新聞記事で調べました。そこに、大きく取り上げられていて」

「勉強熱心なのですね」

 ベネット様はまた機械的に言った。寄り添おうとしてくれているのは伝わるけれど、なんとも淡々としている。

「それなら、話が早いな。お前の相談は、組織に関わりたいということだろう?」

「え、ええ……」

 曖昧に頷いて、これではまずいと焦る。完全にペースを失ってしまった。今日のために準備していた思い出話や切り出し方が頭から抜けていきそうだ。私はそれでも必死に考え言葉を紡ごうとして、重大なことに気付く。

(お父様の方から組織の話を切り出した。ということは)

 気付いたら、不意に思考がクリアになった。

 一呼吸おいて、ベネット様に尋ねる。

「ベネット様は、いつから組織に加わったんですか?」

「組織の一員というほどの自覚はありません。ただ、教授のことは敬愛しています――私に出来る情報提供は、惜しまないというだけのことです」

 回答は、実にさっぱりとしたものだった。

 若き銀行家。準男爵の地位。

 新進気鋭の、貴族向けに特化した銀行の創設者。

(お父様にとっては、心強い味方なんだわ……)

 一線を引いた彼の態度からは、自分の仕事に対する誇りのようなものが感じられた。きっと彼は犯罪者なのではなくて、協力者という位置付けなのだろう。

 これも、お父様の「人脈」というわけだ。

 私たちのやり取りを聞いたお父様は、ベネット様についてゆっくりと語った。

「彼は在学中から卓越した才能を持っていた。組織の存在を打ち明けても、理性をもって判断してくれるであろう人物だった。卒業後も期待以上の成功を収め、組織の活動にも大きく貢献してくれている」

「そうでしたか……」

 お父様がこれほど言うのだから、彼の優秀さと寄せられている信頼は明らかだった。一方でベネット様は、私の方を静かに見ている。

「お嬢さんのことは、組織に近付けない方針だと伺っていました。それが変わったとのことで、私も今日ここに呼ばれたのです」

 変わった?

 まだ、説明を尽くしていない。私がお父様に視線を移すと、小さく首を振られた。

「兄さんから少しは聞いている。お前が自力で真実に辿り着き、私達の信念に共感してくれたと。私はお前に何事も強制しないし、そうなれば意思を妨げるつもりも……」

「私は」

 まるで用意されていたようなお父様の言葉に、私はつい割り込むような形になった。最初から、私の言い分を認めるつもりでここに来たのだとわかったから。

 お父様は私に甘すぎる。私の望むことをいつだって叶えてもらえるのは、確かにありがたい。幸せなことだ。でも――それは本当は、お父様の「組織の作り手」としての姿勢から、外れてしまっているのに違いない。

 気付けば立ち上がっていた。

「私は、それを……お父様に自分で伝えたくて今日ここに来たのです。アイラ様の死の真相を知りました。お父様は、正しいことをしたと思いました――その結果として守られた私も、あなたたちと母の意思を継いで、秩序を守りたいと思ったから。そうお願いするために」

 一気にそこまで語って、言葉を止める。暴走してどうする……。様子を窺うのも怖いが、ベネット様なんて固まってしまっているように見える。

「……あの、お願いします。お父様の力になれるような仕事を、私にもください」

 こうなってはもう仕方なかった。私はとりあえず最後だけ丁寧に言い直して、頭を下げた。

 怖くて顔が上げられない。沈黙は恐ろしいほど長く感じられた――やがてその沈黙を破ったのは、お父様ではなくて、あの理知的な声だった。

 理知的で、そして秘めた優しさの伝わる声。

「お若いのに、これほどきちんと筋を通される。あの日の教授そのものですね」

「やめろ、ヴィクター」

 お父様の声はなんだか気まずそうだ。

 顔を上げなさい、と言われて目が合ったのはベネット様のほうだった。彼が懐かしささえ感じているような穏やかな表情をしていて、私は誤魔化すように椅子に座り直す。

「……よく分かった。分かったから、落ち着きなさい」

「はい……」

「仕事といっても、お前に荒事をさせる訳にはいかない。適性もないだろう。その辺りはどう考えている」

「ポーロックとも話したんですが……犯罪計画の立案方法を、お父様から教わりたいと思っています」

 私の返答を聞いて、お父様は半ば予想していたように息を吐いた。そんなことだろうと思った、と言う口調は諦めを孕んでいる。

「現実的なところだな。そういうことで、今日ここに彼を呼んでいる」

「え?」

「お前には伯爵令嬢としての立場がある。兄さんのように陰で動く役割ならば、隠れ蓑はどうしたって必要になるからな」

 そして、お父様は衝撃的なことを言った。

「アザリー。ここにいるヴィクターと、結婚するというのはどうだ」


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