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春嵐 03

 結婚。

 結婚?

 全く予想していなかった単語に、私は完全に固まった。意味がわからない。ベネット様も同じだろうと思って彼を見ると――なんと彼は平然とした表情を保ったままだ。

「……え?」

 私ひとりで馬鹿みたいに聞き返すと、お父様は驚きすぎだと溜息を吐いた。

「隠れ蓑と言ったんだ。社交界にいれば、お前にはこれから大量の縁談が持ち込まれることになる――面倒なことになるよりは、組織の理解者と結婚しておくのもいいという意味での提案だ」

 言われたことを脳内でもう一度反芻し、一応納得した。確かにそう言われてしまうと、まったく事情を知らない人との結婚は厳しいのかもしれない。でも。

「――そういうことですか。ですが、ベネット様は」

「教授の仰ることですし、異議はありません」

 私はいっそ救いを求めるように話を振ったのだけれど、彼の答えにはまったく迷いがなかった。そこまで言い切られてしまうと困るのは私のほうだ。異議って……。

 彼の様子を見ていると、どうやら先にお父様から話を聞いていたようだ。その上で私に接していたのかと思うと、なんだか訳のわからないことになってきた。

「もちろん、無理にとは言わないが。兄さんに任せればいくらでも相手は見つかるだろうし、お前も平和に生きていける」

 ついに私は絶句する。

 そうか、あからさまには言わなくてもこれはお父様からの条件のようなものなのだ――私がどこまで出来るかわからない段階で、何も知らない相手との結婚はあり得ないということ。

 きっと有用だろう社交界との縁を私が切れるわけもないのだから、二つに一つである。

「……で、でも……」

 別に誰か相手がいる訳じゃない。確かに社交界で声を掛けられることはあったが、正直婦人たちとの付き合いのほうが心を砕く必要があって、ほとんど印象に残っていない。

 あと、恐らくはお義父様からかなりのブロックがかかっている。

 さらに言うなら、貴族の結婚は恋愛感情というよりは家同士の繋がりが重視される。私がどう思おうと、自分一人でどうこうできる種類のことではないのだ。

 お父様が勧めてくるくらいの相手なのだから、その点では心配もいらないのだろう。お父様がこんな風に意見を聞いてくれること自体、他の令嬢たちに比べたらかなり配慮されているといっていい。

 だけど……。

 だけど!

「気が進みませんか?」

 ベネット様は表情もろくに変えないで尋ねてきた。そんなところまでお父様に影響されなくたっていいと思う。私の返事はなんとなく棘のある言い方になってしまった。

「ベネット様は、乗り気だとでも?」

「私は準男爵位で、まだ社交界にも顔を出せるようになってきた程度の影響力しかありません。あなたの夫という立場を得られるなら、大変ありがたいですね」

 そして彼の返事も大概感じが悪いと思ったけれど、その顔を見れば別に気分を害した様子もない。どうやら本気で言っているようだ。

 隠れ蓑。

 それは、ビジネスパートナー的な意味合いなんだろうか……。少なくとも彼からは、結婚という言葉に対して私が抱いているような浮き足立つ感情は一切感じられない。

 彼の方がこれをただの社交界への足掛かりと考えているのだとしたら、私が馬鹿みたいじゃないか。

 そうだ。そもそも私は何をしに来たんだ。

 お見合いをしに来たわけではない。自分の出生の真実を知って、生き方を選ぶために来たのに。

 私の動揺が萎むように落ち着いたのを見てとったのか、ベネット様が口を開く。

「そうすれば――」

「……何ですか?」

 何を言われたところで、自分のことをビジネスチャンス扱いされた後では響かないだろう。そう思い小さく相槌を打った私と再び目が合っても、彼はまったく動じずに言葉を続けた。

「――あなたのことを、堂々と守れます」

 私は思い切り咳き込んだ。ベネット様はすぐにこちらへ寄ってきて、大丈夫ですかと言う。

 誰の――誰のせいだと!

「何故、そんなことを」

「そんなことというのは」

「私を守って、あなたの仕事の……何になるって言うんですか」

 見上げた彼の顔があまりにも涼やかすぎて腹が立つ。私の夫になれば云々というのは、自分のためなどではないと?

 流石に嘘に違いないと思って聞き返すと、初めて彼の目にわかりやすい感情が宿った。

 怒ってる?

「心外ですね」

「え……」

「あなたの話は、教授を通して以前から聞いています。意志の強さと行動力、その聡明さに――力を貸したいと感じていてはおかしいですか」

 彼の言葉が直球で私に届いた。

 ビジネスパートナー、なんかじゃない。最初から彼は自分の仕事の話なんて一度もしていない。動じていないのは姿勢が一貫しているからだ。

 彼はずっと、「私の生き方」の話をしているんだと――やっと気付いた。

「……」

「アザリー様?」

「えっと……」

 気付いたら気付いたで言葉が出てこない。勝手に傷ついたような気になっていたのは勘違いだったらしい。

 この場にいる大人の男性二人と自分の差が急に気になって気まずさが襲ってくる。とりあえず距離が近いのも困る。

「ヴィクター」

 見かねたらしいお父様の呼び掛けを受けて、ベネット様は改めて私の無事を確認してから自分の席に戻った。

 静かな応接室にまた間が生まれて、もういっそ消えてしまいたいくらいのことは思う。でもベネット様の持つ誠実さにほんとうに気付いてしまったら、もうそれを見なかったことにはできなかった。

「あの」

 私の上げた声がどんなに小さくても、いち早く視線を向けてくれる人。

「ごめんなさい……ベネット様」

 ありがとうございます。

 一拍のあとで、彼が綻ぶように微笑んだ。それを自分の視界にとらえた瞬間、心の奥でなにか温かい感情が生まれたように思ったけれど――私は慌てて、そんな単純な自分を抑えた。

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