会いたい。
会いたいのだろうか? そんなつもりじゃない、と思う。
でもルーシーは私が否定すればするほど笑ってしまってどうしようもなかった。
半ばルーシーを追い出すようにしてからデスクに座り直す。封筒は丁寧に置いていかれている。
(これじゃ、何も書いてないようなものじゃない)
仕方なく再び手に取り、開けてみる。お元気ですか、って何だろう。
気になるなら、聞きに来たらいい。それなのに彼はこんな手紙で誤魔化そうとする……。
そんな風に考えて、私は頭を軽く振った。誤魔化すなんて言葉は、彼には似合わないと思ってしまったのだ。記憶の中の視線はいつでも真っ直ぐだった。咳き込んだ時も、私の体調をすぐに気遣ってくれたりしたし。
……じゃない!
こんな紙一枚にどれだけ悩まなければいけないのだろう。絶対、五分くらいで書いたに違いない手紙に。
返事を書かなければいけないのは礼儀としてもちろん分かっていた。けれども私はそんな礼儀にも理不尽を感じて、返事を保留することにした。せめてもの抵抗のつもりで――それでも封筒を捨ててしまうことができないのが不思議だった。
そしてそんな風に手紙を無視して一週間。私は自分の非礼を心底後悔することになった。ベネット様が仕事のことで屋敷を訪ねてきたというのだ。
「お嬢様が拗ねたりするから、こういう気まずいことになってしまうのですよ」
ルーシーが私を諭す言葉にも、なんとも言えないような気分になった。今までは気の向かない招待状にだって懇切丁寧に返事をし続けてきたというのに、どうしてこんな時ばかり。何と言い訳をしようか、情けなくなるくらい動揺している。
「気まずくなんて……」
「あら。ベネット様は、お嬢様にはお会いにならないそうですよ?」
ルーシーの言葉は私にさらに衝撃を与えた。会わない?
私は自分でも分かるくらい固まり、意味もなく視線を彷徨わせた。……どうして?
「どうして」
「ルーシーには、分かりかねますねえ」
ついそのまま口にした疑問にも、あっさり首を傾げられる。たぶん普通に答えているだけであろうルーシーがやけに冷たく感じるのは、私がそれだけ焦っているということだろうか……。
落ち着かなきゃ、と思ってもまったくうまくいかない。逸る気持ちを懸命に抑えて尋ねる。
「ベネット様は、下にいらっしゃるってこと?」
「ええ。直接お渡ししたいからと、何か大切な書類をお持ちになっただけのようですよ」
それなら、時間がない訳でもないはずなのに。この屋敷まで来て、それでも一瞬も会いたくないなら――それほど嫌いなら。そんな相手との結婚だなんて、選択肢にだってならないだろうに!
私は立ち上がった。幸い今着ているのは最近買ったばかりのティー・ガウン、人前に出られないほどの服では決してない。いやでもベネット様の前に出るのはどうかということはさておいて、けど、もう――仕方ない。
「お嬢様?」
慌てて部屋を飛び出した私をルーシーは追いかけてきた。出来れば、というかかなりついてきてほしくないけれど、たぶん無理だろう。
廊下を進んで、階段を下りて。あと一階行けばというとき、視界の端に玄関ホールを今にも出ようとする彼の後ろ姿が見えた。
この前の舞踏会の時にはあれほど遠く感じた背中が、今はすぐそこにある。
「ベネット様!」
呼び掛けは少し大きすぎたかもしれない。いっそ祈る様な思いで投げた声が――彼を振り向かせた。
「……アザリー様?」
彼が足を止めたと分かってから、私は反射で声を上げてしまったことに我ながら驚いた。名前を呼ばれたことにも勝手に安堵している。彼の表情には、幸い怒りはない、ように見えた。
でもそれ以上はとても確認できなくて、残りの階段を急いで下りる。
彼も出ていくのをやめて、玄関ホールから一歩こちらに戻ってきていた。相変わらず完璧に整えられたスーツ姿の彼と向き合うのがなんとも心許ない。
「……お、怒っているんですか?」
「はい?」
「怒ってるんですか?」
あまりの気まずさから、馬鹿みたいな尋ね方しかできない。どうして突っかかっているんだ。でもベネット様は私の様子がおかしいとでも思ったのか淡々と答える。
「何故、私があなたに怒るんです」
「手紙の返事をしていないので……」
「はあ」
ベネット様の反応は実に薄かった。まったくピンと来ていないようだ。怒っていないのはいいけれど、気にされていないのも……。
「あれは別に、そこまで期待していたものでもありません」
この冷たい返事! 私はつい彼をきっと見上げ、それならと続ける。
「怒ってないなら、どうして――帰ろうとするんですか!」
今度の問いはベネット様をどうやら困らせたらしい。またすぐに淡々とした返事が来ると思っていたのに、彼は迷った様子で私を見下ろす。けれどもやがて何か整理がついたらしく、頷いた。
「そういう約束でしたから」
「約束?」
ベネット様は、私を宥めるように肩に手を置こうとして結局やめてしまった。その仕草に首を傾げた私に、衝撃的なことをさらりと言う。
「あなたのお父様に言われていたんですよ。あなたの方から私に会いたがるまでは、決して余計な真似をしてくれるなと」
「よ……余計な真似って」
「要は、あなたに近付くようなことですね」
ですねじゃない。私はあまりの爆弾発言にしばらく固まった。それをベネット様が真面目に待ってくれているうちに、お義父様の爽やかな笑顔が頭の中に浮かんでぐるぐると回った。
アズ、という穏やかさに満ちた呼び掛けが脳裏に響いてくるようだ。
(お義父様、なんて――なんてことを!)
「社交界における支援はしてもいいが、それとあなたとのことを認めるのとは別とのことだったので。ラインハルト様に嫌われては大変ですから」
嫌われては大変。そんな貴族的な発言に反発を覚える暇もなかった――彼が自分の仕事のことだけを考えているんだったら、社交界での支援だけで充分なはずだ。
彼と初めて会った時のように仕事のためですかと訊くには、彼の目は優しすぎる。
あの短い手紙だって、あれが精一杯だったとでも……。
期待していないなんて言葉の意味が、今ではまったく変わってくるじゃないか。
「ですが、会いたがるどころか――会いに来ていただけましたね」
彼の言い方にはどこか安心したような、緩やかな達成感があった。そんな口調で言われては、まるで喜んでいるみたいだ。いったい何が起きているのか。私は先日の、令嬢たちと踊る彼の姿を思い出してつい言い返してしまう。
「……で、でも。大人気じゃないですか。ダンスの相手もあんなにたくさん申し込まれて」
「怒っていますか?」
「怒っていません!」
「では、私にはあなたがいるからとお断りしても?」
まるで効いていない。揶揄うような言い方に、今度こそ私は怒った。婚約前にそんなことを言ったらどうなるか!
でも散々に文句を言う私のことを、ベネット様は穏やかに微笑んで見ているだけだ。
文句を言い疲れて黙った私の髪をそっと一房、角ばった手が撫でていった。
「……ようやく、あなたに近付くことができます。私の方から」
もう、言い返す言葉が残っていない。
できることもない。こんな誠実さを、彼がずっと守り続けていた約束を知ってしまったら――あとは、静かに頷くことくらいしか。