ベネット様は一度自分の発した言葉を決して違えない人だということが、それからよくわかった。
臆面もなく手紙を送ってきたり、仕事を理由に屋敷を訪ねてくるようになったのだ。ルーシーはあの日の玄関ホールでのことを全て見ていたので、毎回満面の笑みで報告に来るのが実に気まずい。
彼は常に淡々とした態度を崩さない。それなのに私を気にかけてくれているとわかるのが、どうにも私を動揺させるのだ。
お義父様は……。
結局私には、お義父様を責めるような真似はできなかった。けれどベネット様の姿勢が変わったことはすぐに悟られ、しばらくはお義父様からの視線がものすごく物言いたげだった。それでも何も言われなかったのは、一応、私を尊重してくれたのだと思っている。
ただ、そのくらいがまだ限界。社交界ではまだ私達は距離を取っている。
普通に言葉を交わすくらいなら大丈夫なのだけれど、パーティのたび令嬢たちから囲まれる彼に近づくのはなんとなく気が引けた。その中心から彼がこちらに時折視線を寄越すのに気付いてしまったら、余計に。
というわけで、私はその日のパーティでも彼から離れていた。
見ている限りでは、ベネット様は男爵位や子爵位の令嬢たちに爆発的な人気が出ているようだった。それに加えて彼が貴族向けに特化した銀行を動かしていることで、本来の地位以上に関心を集めているらしい。
(……また、違う人)
彼が女性と言葉を交わすたびにほのかな苛立ちを覚える。そんなことを手紙にでも書いて送ってしまいたい気持ちもあるけれど、いったいどんな顔をされるかと思うと……。
とりあえずあまり見ているのもやめようとその場を離れようとして――視界に入った人物をみとめ、つい足を止めた。
ハーディング伯爵。
彼も、ちょうどこちらを見た。彼は機を得たとでも言うように、私の目の前まで歩いてくる。
「良い夜ですね。アザリー嬢」
「こんばんは。ハーディング伯爵」
私は声が硬くならないよう細心の注意を払った。彼は「娘と同世代の伯爵令嬢」ということもあって、私のことをしっかりと記憶しているらしかった。社交界デビューを果たしたあの日の記憶は未だに鮮明だ。
(あの時は、何も知らなかった……戸惑うばかりだった)
煌びやかな世界と押し流されそうなほどの視線の中で自分を保つのに、しなければならないことに、精一杯だった。
けれど今は、彼に微笑みを向けながらその挙動と発言を冷めきった心のうちに焼き付けておくことも難しくはない。
「本当に、回復されてよかった。モリアーティ伯爵も、さぞご安心なさったでしょう。私の娘は……」
ハーディング伯爵は悲しげに目を伏せた。私はそれに貴族としての同情で応じながら、今までの社交界での彼の挙動を思い出す。
娘の失踪。イヴのことがあって家自体が注目されるようになってから、彼が人を雇って誰かを襲わせることはなくなっていた。
ただし彼は周囲の貴族たちに自分が見舞われた悲劇を大仰に語り、取り入ろうとさえした。
娘を利用しているのは明らかで、一部ではそんな態度はもちろん快く思われなかったが、事情を詳しく知らない「成功例」もいくらかはあったようで――彼は未だに社交界に出入りする身なのだった。
「私の社交界デビューの時にお話できたこと、今でも覚えております」
「そうでしたね。……娘はきっと、駆け落ちでもしたのだと思うようにしているんです」
もっともらしい口調で彼はそんなことを言った。わずかに首を傾げると、さらに詳しく語る。
「私には何も話してくれませんでしたが、あの子には悩みがあったのでしょう。だから、何も言わずに家を出たのです……こんなことを言いたくはありませんが、あの子の遺体は見つかっていないのですから」
どこかで、幸せに生きているのかもしれません。そうであってほしいと願うことしかもうできないのです。
そんな風に、取り入りたい貴族の前で涙を浮かべたのは何度目なのだろう。娘の勝手な行動にも可能な限りの理解を示し、幸せを願う父親。そんな姿を見事に演じ終え、彼は私の反応を待った。
拍手でもすればいいのだろうか。
イヴが私を殺そうとしたのは事実だが、娘が消えたと知って彼が自分の犯した罪について考えなかった訳がない。告発されるかもしれないとさえ思っただろう。
だから、娘に生きていて欲しいなんて言うのは明らかに嘘だ。
(本当に……)
捜索は続いているのですよね、きっと良い知らせがありますよ。私の慰めにハーディング伯爵は何度も頷いた。ありがとうございます、と言われたところできっと話の「前座」は終わったのだと思う。
彼の目が、確かに変わった。そうだ。あの日からろくに関わっていなかったとしても、今の私が彼にとって「取り入りたい」貴族であるその理由。
「暗い話になってしまい申し訳ございません。しかし、今日もまた一段と人気ですな」
「……ベネット様のことでしょうか?」
彼が自然なつもりで視線をホールの中央に移して切り替えた話題は予想通りだった。私や「後ろ盾」であるお義父様を介した方が、ベネット様にもより丁重に扱うべき存在として認識される。そんな魂胆なのだろう。
経営者であるハーディング伯爵が、彼の「貴族向けの財産管理サービス」に興味を持つのは自然なことだ。
「ええ。モリアーティ伯爵が彼を連れてパーティに出られているのを何度か拝見しましたよ。彼の銀行は実に評判のようじゃありませんか」
「そういったお話を、よく伺いますわ」
彼が今更私に近付いてきた理由はわかった。自分にも紹介してほしいと言われるだろうが、どう対応したものか内心で迷う。
お義父様に繋いでほしいと言うご婦人たちには悪意がないからまだいいけれど、それよりもさらに何もする気になれない。
それに、彼の事業を私だって尊敬している。
こんな男に利用してほしくないという思いも自分の中には確かにあった。
きっと今でも健全な経営なんてしていないだろう。証拠を用意できるわけではないけれど、自分の中にあるどうしようもない嫌悪感は二度と消えない。目の前の笑みが深くなるのも不気味だと思ってしまう。
イヴのことを――いなくなった娘のことを、会話の糸口程度にしか思っていないなんて。
こんな男。
こんな男を苦にして、あの子は……。
「そうでしょう。みんな、画期的な事業に興味を持っているのですよ。アザリー嬢もきっと彼と親しくしていらっしゃるのでしょう? ぜひ私も、その恩恵に預かってみたいものです」
相手がお義父様ではなくて私のような小娘だからなのか、嫌な笑い方とともに告げられたのはそんな思慮も何もない言葉だった。その表情を見ただけで、まるで私だけでなく彼まで軽視されたような怒りが込み上げた。
「ベネット様は、」
「失礼」
言葉を選べなくなるところだった。だから。
だから、その涼やかな声が私を守るように降ってきたとき、――どうしようもなく、安心した。