イヴ。
イヴ・ハーディング。
「氷の君」。
そんな風に呼ばれていたほどの美貌を持つ、知的な女性。
理性に満ちた佇まい。少し低い声。
でも、可憐に笑うことも何度かあった。
思惑の渦巻く社交界のことは嫌いで、いつもホールの隅から周囲を冷めた目で眺めていた。
私の初めての友達。
私を殺そうとして――悲惨な死に方をした女の子。
ポーロックと知り合いになっていなかったら、私は殺されていたのだろうか?
考えてみた答えは、どうしたって否だった。
ポーロックはあのとき、私が死んだらお父様に殺されると言っていた。自惚れるわけでもなく、私はお父様にとっての宝だ。幼い頃から言われ続けた台詞が持つ意味は、今やただの愛情表現だけではなかったのだと理解している。
愛する人との間の子。幸せに生きてもらうために、完全犯罪をも成し遂げてまで守った存在。
きっと犯罪に関わらない道を選んでも、私はあらゆる危険から守られた。お父様の作った組織によって。
私が、この世の「全ての」犯罪を憎む人間になっていたとしても、それでも、私は命と生活を守られたのだろう。
「幸せに生きていける人生」を。
本心からそう思う。
(そうではなくて、本当に良かった)
私がそんな人間になっていたら――お父様は私を守りながら、傷ついたことだろう。
守るための犯罪をも唾棄するような娘に育ってしまったら、それはそれは、傷ついたことだろう。
「アザリー。お前なあ」
時間通りに屋敷を訪ねて来てくれたモランさんは、見た瞬間にわかるくらい厳しい顔をしていた。まさか挨拶もさせてもらえないとは。私は慌ててモランさんに駆け寄り、その変わらない体躯を見上げた。
「あの、上がってください。モランさん」
「俺は反対しに来たんだが、いいな?」
「そう言われてしまうと、何とも悲しくなってしまいますが……」
いいですと言える訳もない。私の誤魔化し方はお義父様譲りなのできっと笑顔が似ていたのだろう、モランさんは深く深く溜息を吐くと私の後に続いてくれた。
モランさんを呼んだのは、私だ。お父様にお願いしたのだ――犯罪計画を学びたいとは思っているけれど、もし戦闘手段を得るなら射撃でも教われとポーロックに言われたと。
お父様がその段階で強く反対しなかったのは、きっと直接話した方が早いと判断されたからだろう。この調子では、モランさんは絶対に頷いたりしない。もちろん生半可な気持ちで言った訳ではないけれど、私にこの人を納得させられるだけの度量があるとは思えない。お父様の判断は、いつも正しい……。
モランさんは飲み物すら固辞してソファに掛けた。食い下がったら怒られそうで私も倣って腰を下ろすと、獣のように鋭い眼光が私を捉える。この表情。お父様より厳しいかもしれない。
「アザリー。単刀直入に言うが、お前には無理だ」
「……あの、私、まだ何も」
「なら聞く。話してみろ」
話しにくい。ものすごく、話しにくい。私は内心の恐ろしさに耐え、冷静に説明するよう努めた。イヴのこと。聴覚のことと、ローレンス様のこと――母が、二人の父が、私のために払った犠牲。
犯罪計画を学びたいと思っている、と言っただけでもその眉が顰められたのが分かった。
「……誰かにもう言われてると思うが」
「はい」
「その『犠牲』は、お前が幸せに生きていくために払われたんじゃないのか」
モランさんの当然の言葉は、ポーロックも口にしたことだった。疑問を投げかけはしたけれど、親の力になりたいんだねと理解を示してくれたのがどれだけ甘い対応だったのかが今更ながらに分かる。
たぶん、絶対、深入りしなかっただけだと思うけれど。
「お前は親の後を追いたいんだと思うが――逆に言えば、お前を危険から遠ざけようとして犠牲を払ったのに、娘が影響されて犯罪者になったら本末転倒だろう」
「それは……」
「ラインハルトはなんて言ってるんだ」
「私の意思を尊重する、と」
正直に答えたのも火に油を注いだらしかった。モランさんがあいつ、と小声で毒づき、一気に身体が縮むような思いがする。
私が窺うように送った視線にもすぐ気付き、目が合う。いつになく険しいその表情に、モランさんが本気で怒っているらしいことが伝わってくる。やや乱暴に頭を振って、独り言のような呟きが耳に届いた。
「こんなことになるなら、近付けるんじゃなかったか? 最初から……」
最初から。
言葉が脳に届いた瞬間、私はつい立ち上がった。