たっぷり一分は沈黙したと思う。ようやく引き戻した意識は、背後からの恐ろしく厳しい気配を感じ取ることができるようになってしまっていた。絶対に振り返りたくない。目の前のにやにやした笑顔のポーロックは、どうしたら追い払うことができるのだろう? そんな現実逃避をさらに続ける。
「お嬢さん。聞こえてないわけないよね?」
面白がるような声音に対して、私はひたすらに沈黙した。ポーロックの言うことだから無視しようという意思なら持つことができる。
だけど。
「……――アザリー様」
その声。久々に聞くその声だけは。あれだけ抵抗しようとしていたのに、私は振り向いてしまった。
振り向いた先。庭の揺れる木々の下に、彼の姿があるのがまるで嘘みたいだった。
会うつもりのなかった彼が、いつも通りの姿で私の目の前にいる。それなのにその表情だけが、いつもと違う。
「ど、どうしてここに」
「あなたとまったくパーティで会えなくなったのと、ラインハルト様から八つ当たりをされるようになったので――様子がおかしいと思い、仕事前に寄らせていただきました」
(また、お義父様!)
八つ当たり。
八つ当たりって、何……。
私は絶望的な気持ちのままとりあえず頷いた。この人が見た目に添わずかなりの行動派だということを実感させられる。
それで、ポーロックと話している私を見かけてこちらに来たということだ。どれだけ異様な光景だったかと思うと彼の驚きは想像に難くないし、それはそれとしてさらに絶望的な気分になった。
「それで、その方は?」
「そこの頑固なお嬢さんの気持ちは今自分で言ってたとおりだから、僕に変なやっかみを向けるのはやめてくれよ。僕はただの教授の部下だから」
今度はポーロックの声が背後から聞こえてきて、私は今この瞬間自分の抱えた感情がとても物騒なものであることをはっきりと自覚し――怒りのままにふたたび振り返ったら、あっさりと彼は姿を消していた。
絶対。
絶対、知ってて来た。
やっぱり「遊びに」、私を揶揄うためだけに来たんだ。だからいつもと時間が違ったんだ。
私は二度と庭になんて出るものかと固く決意し、窓に合図が来たとしても一生無視することを決めた。決めたところで風と消えた彼のことはどうしようもなく、私は深く息を吐くしかない。ポーロックの姿が消えて戸惑ったらしいベネット様に向けて仕方なく説明する。
「……彼がお父様の部下なのは、本当です。別に、何もありません……」
あってなるものか。そんな怒りが声に滲んだからなのか、ベネット様は疑う様子もなくひとつ頷いた。その表情にあった動揺ももう消えているように見えたけれど、話題は何も変わらなかった。
「ハーディング伯爵について、しようとしていることを教えてください」
彼はほぼ完全に私とポーロックの話を聞いていた。お義父様に話をした意味がなくなってしまったが……これも元はといえば、怪しまれるような真似をした自分のせいである。
観念して、私は簡単に過去の事情を話した。そして、深入りされることのないようにそのまま話を切る。
「――でも、私の問題です。自分でやろうと思っているんです。だから」
「力になれると思います。一緒に考えましょう」
彼は何でもないことのように頷いた。表情はまったく変わっていない。そう、こうなると思ったから離れようと思ったのに。私の反論がどうしても冷たくなってしまう。聞かれていたならもう同じことだった。
「ですから、私はあなたを迷わせるようなことを」
「迷わなければいいんでしょう」
言葉は、こちらが一歩引いてしまいそうなほど真っ直ぐだった。
こちらの心の方が震えてしまうほど。
「私が教授に情報提供をしてきたのは、教授が信頼に足ると……私の手にする情報を、悪用する人ではないと信じられたからです。あの人は決して私の信頼を裏切りません。私の事業家としての面を尊重してくださるのです。私に犯罪者としての一面があるのだとしても――それでも、誇りを持ち続けられるように」
「ベネット様」
「あなたも、同じなのですね。アザリー様」
彼の視線、その中心に私が置かれている。彼の瞳に熱が宿っている。
その熱が、今まであった境界線を灼き切るようだ。
息が止まったように、時が止まったように、何も言えない。
「私はあなたのためなら犯罪者となってもいい」
本心を彼に話すつもりはなかった。それを聞き届けた彼がここまで来てしまった。
私の、すぐ目の前まで。
自分が泣いていることに気付いた。その涙を、静かに拭われる。
「会いたかったです」
あまりに優しく呟かれて、私は首を横に振った。
彼が意味を計りかねたような顔をするので、つい文句を言いたくなった。ひどい、と怒ってみる。
そう手紙に書いてほしかったです。
すると、彼は笑った。
八つ当たりをするのも、同じですね。