「お義父様!」
「アズ。ただい――」
夜、屋敷に戻ったお義父様を私は一番に出迎えた。お義父様は嬉しそうににっこりと微笑んだけれど、すぐにその笑顔が固まる。私の表情に気付いたのだ。
「……怒っているのかい?」
恐る恐るの質問が返ってくる。怒っている――ベネット様にしたという「八つ当たり」の文句を言おうと思ったのだ。そこではたと、そもそもベネット様が訪ねてきたことから話さなければならないことに気付く。
いや。
ベネット様は何も悪くないし――気まずいことだって、ない。
(ない、はずよ)
「お、怒っています」
「おやおや」
お義父様は悲しげに首を振り、一体何にと私を見た。この視線に負けてはいけない――私は自分を精一杯奮い立たせて切り出す。
「今日、彼が訪ねてきてくれました」
「彼とは?」
「――ヴィクター様が」
なんとか、自然に言うことができた。聞き流してもらえないかなと思った瞬間、お義父様が手にしていた鞄を落とした。重いものでも入っていたのか、ドン、と響いた音がやけに大きく聞こえたのは動揺ゆえだろうか。跳ね上がった心臓を内心必死で誤魔化していると、お義父様が油の切れた機械のように腰を折った。
鞄を拾い上げる。
なんとも言いようのない静寂。
どう言い出そうかということはかなり様々なパターンを考えて練習していたのだけれど、全て吹き飛んでしまった。というか、一番端的でいいだろうと思っていたものをつい選んでしまったが、それがまずかったようだ。
やがて、お義父様が顔を上げた。
(ショックを受けていらっしゃる……)
「アズ」
どれだけ長かったかわからない沈黙の後に名前を呼ばれた。その声に怒りは宿っていない。
「……じゃあ、彼とは二度と会わないと言っていたのは、無かったことになるんだね?」
「え、ええ」
考えが二転三転する私にお義父様も怒るのではと思っていたので――そんなすんなりとした反応はとても意外だった。再び歩き出したお義父様に従いながら、我に返る。
「お、お義父様。彼に冷たくあたるのは、やめてください」
「何のことかな」
思い当たることがないとばかりにとぼけたお義父様は、やがて自棄のように手を軽く振った。
「君の言ったとおりにするため、アズは君のことが本当に本当に大嫌いだから二度と会いたくないそうだ、とは言ったがね。たったそれだけだよ」
「言ったとおりじゃありません!」
私は驚愕した。まさか、そんな有り得ない言い方で伝えていたとは。今まで普通にしていたのにそんな風に言われては、何事かと思ったヴィクター様が様子を見に来るのも当然だ――しかも八つ当たり呼ばわりされていたくらいだし、まったく効いていない。
私が彼に会いたくない訳がないと確信されていたのだと思うと、かなり気まずい……。その辺りのことは考えないようにするため、私は何度か首を振る。
「しかし、よく気が変わったね。彼は何だって?」
「ハーディング伯爵を罰するなら、協力できると言ってくれました。アダム様に連絡して、ご意見を伺いたいと思っています」
「そうか」
お義父様の動揺も落ち着いてきたようで、ひとつゆっくりと頷かれた。
「ハーディング伯爵か……。そうだな。君がそれでいいなら、頑張りなさい」
前に組織の一員となりたいと伝えた時にも私の意思を尊重すると言ってもらえた。今も変わらず、私の行動を止めるつもりはないらしい。
「お義父様は、反対されないのですね?」
思い切って尋ねてみると、優しい瞳がふいに揺らいだ。私のことを心配しているということは、その一瞬で伝わるような目だ。
「誰か反対したのかい」
「モランさんには、とっても怒られて反対されました」
彼らしいな。その言い方からは、モランさんの怒る様子が簡単に想像できる可笑しみが容易に見て取れた。でもその笑う様子すら何故か切なくて、アズ、とふたたび名前を呼ばれる。
「私だって、心境としてはモランと同じようなものだよ。だが私は――君を止める権利など、誰にもないと思うんだ」
「……はい」
誰にも。
お義父様の言葉は強かった。
受け入れられたからこそ生じる責任がある。頷いたからこそ戻れない世界がある。
私は床に目を落とした。見慣れたはずのそれは少し色味が違って見えた。その影も色濃く、どこか違うもののように感じられるのだ。自分がこれから、違う世界へ踏み出すように――違う世界へ、落ちるように。
土壌が整いつつある。誰も止めない。
社会に裁かれなかった人間を私が代わりに罰することを、誰も止めない。