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選び取る人生 03

 自分の利得のために他者を傷付け続けた。そんな環境の中に娘を置き、苦しませた。娘が失踪しても偽善的な言葉でそれを利用して、合法的な償いを逃れ続け――今もなお生き残ろうとしている人間。そんな男を今度こそ裁くための計画。

 ヴィクター様の力を借りつつ完成したそれと一緒にして、私はお父様に連絡を取った。返答は、数日経ってやってきた。

 ――やってみろ。

 あのお父様の審査を通り、実行を許された計画。そう思うと心が改めて決まった。

 正義を、秩序を守りたい。普通に生きているだけでは守れないものを。

(正しいことをしている。そういう自覚が、確かに自分の中にある)

 もう、躊躇いはなかった。


 とある日。

 ロンドン警視庁に匿名の郵便が届けられる。

 それは、ハーディング伯爵の経営する鉱山事業会社に関する告発状だった。不正取引、従業員やライバル企業への襲撃。資金隠し。

 娘の失踪騒ぎでも世間に知られていた伯爵の名に、警視庁は捜査するかどうかの検討を始めることとなった――そんなタイミングで、ロンドンにある新聞社のうち四つにも同じく告発状が送付された。

 タイムズ紙、デイリー・テレグラフ。パンチにペニー・ドレッドフル。

 今度の告発状は、ロンドン警視庁に届いたものと同じだ。ただ、こちらには署名があった。

 差出人。

 差出人の名は、イヴ・ハーディング。

『私は犯罪に塗れた実家に心底失望し、姿を消したのです――』

 出鱈目な住所から送付されたその告発状を新聞社がこぞって取り上げたのは、それがあれほど世間を騒がせた「失踪中の伯爵令嬢」からのものであり――その書きぶりが、家族により情報提供されていた彼女の筆跡と酷似していたからだった。

『私は遠い地に逃れることができました。場所を明かすつもりはなく、二度とロンドンに戻ることもありません。ですが、父に苦しめられていた人のため、今となって筆を執ることを決めました』

『当時、父を恐れて告発することができなかった罪の数々に関し、正義の捜査の手が入ることを切に願います。以下に綴るのは、当時私が目にしておきながら、口を閉ざすしかなかった恐ろしい真実です』

 悲哀に満ちた告発は、爆発的に世に広まった。彼女が置かれていた残酷な環境、彼女に植え付けられていた恐怖心は、当時のゴシップ誌で面白半分に取り上げられた「氷の君」の振る舞いと結び付けて考えられ、深い同情を集めた。

 この大スキャンダルによって、伯爵令嬢の意思どおりに捜査がなされるべきだとの世論が強まった。ハーディング伯爵の事業についてもマスコミが次々と取り上げ、証言をしようとする元従業員も現れはじめた。

 逃げ道が次々と塞がれていく中でも、どうしても弱いと言われたのは証拠だった。

 実際の資産状況。

 不正取引の実情。

 付き合いの長い大手銀行であれば、上顧客である貴族の情報はそう明かされないだろうというのが当時のジャーナリストの予測するところだった。ロンドン警視庁はどうしても身分制度に弱い一面があり、これだけ世間で騒がれたとしてもハーディング伯爵に捜査は入らないのではと揶揄する者もいた。

 だが。

「アザリー、最近メインバンクを当行に移して融資を受け始めたハーディング伯爵について、ついに検察庁から捜査協力要請が来てしまいましたよ。困りましたね」

「それは困りましたね、ヴィクター様。やはり先日、『情報提供』をしてしまったからでは?」

「そうですね。確かに怪しい取引の痕跡があるとは思ったのですが、まさか、ここまでのこととは思っていなかったのですがねえ。悪いことはできないものですね、我々はハーディング伯爵を信頼し融資をしたというのに」

 ヴィクター様はあれからもハーディング伯爵に接触を続け、誘導――融資の話を餌に、「歴史が浅く」「強気な無茶も通すことのできる」彼の銀行へ会社の財産管理を委ねさせることに成功していた。

 急にそこまで大きな動きを見せたことが、かえって怪しまれることに繋がるなんて簡単なことにも気付かせないうちに。

「モリアーティ伯爵」が財産の一部の管理を任せ、その手腕に感動したと言って彼との結びつきを強めた時とはまったく違う――同じことを自分もしたと言って回るハーディング伯爵の動き方は、当然社交界でも密かな噂の的となっていた。

 仕事の一環として融資先を増やした銀行家ヴィクター・ベネットは、「定期的な調査」の中でハーディング伯爵の事業に怪しい金銭の動きがあるという報告を受けた。

「正義の銀行」であるために、これからも清廉潔白であるために、その情報はロンドン警視庁と財務省へと引き渡されていた。

(絶対に、言い逃れなんてさせない……)

 ロンドン警視庁においても、以前からの情報と重ねてしまってはもはや告発状を見なかったことにできなかったのだ。ついに銀行への捜査協力要請が出たという報道がなされ、市民たちは湧き上がった。それでも「貴族向け」を謳う、まだ歴史の浅い小銀行が権力に屈するのではと見る向きも強かった。

 しかし、ベネット・ヴァルディア銀行の対応は、そんな視線を一掃するほど迅速だった。

 銀行は一切の不正を許さないという声明とともに、全面的な捜査協力を表明。そんな大衆の予想を大きく裏切る一手に、世間の注目はさらに集まった。貴族の味方をするのではと不躾な質問をマスコミに向けられた銀行の代表者は、微笑んで答えた。

「当行をご利用いただく『正しい貴族』の皆様のため、ひいては市民の皆様のため。我々は誇り高く職責を果たします」

 資料の全面開示により、ハーディング伯爵の不正は即座に露呈した。彼が今になってその銀行家を責めようと思っても、それは到底無理な話だった。

 彼は伯爵に、具体的な不正の話など一切していないのだから。

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