私達はハーディング伯爵邸に近い街で宿を取った。
私は平民に見えるような装いで、出来るだけ街に出るようにした。地元であるこの土地で、彼がどう振る舞うのかを見定めるために。
街にはかつて療養のために訪れたバースのように、ロンドンより開放的で自由な空気が流れていた。出歩きやすく、人々の持つ雰囲気も和やかだ。自然も豊かで、あの時のことを少しだけ思い出す。
それでも、何か違う。なんとなく違和感があるのだ。
心が落ちつかない。あの時のように、心が癒される訳でもない。
「どうされました?」
「え……」
辺りを見回していたので観光客だと思われたのか、私は年配の女性から声を掛けられた。地元の人のようだ。
(どうせ、これが終われば二度と来ることもない)
私はそんな冷めた気持ちから、彼女に質問してみることにした。ハーディング伯爵のことだ。特に詳しい話など聞けないかもしれないと思ったけれど、彼女は好意的に頷いてみせた。
「ハーディング様といえば、とても立派な方よ」
「そうなのですか。どんな風にですか?」
昔は彼が屋敷で催しを開き、地元の名士たちがよく集まっていたらしい。困っている者には進んで手を差し伸べたという話もあり、領主としての彼の一面を見た。
「立派な伯爵様」。
そんなことを彼女が見ず知らずの女に話してしまうくらい、親しまれた存在だということ。
(……そう……)
違和感の正体は、じきに知れた。
「立派な伯爵」である彼が街に戻ってきたことによって、私が見ることになった現実。
その現実が――おぞましかった。
ロンドンから離れたこの土地では、ハーディング伯爵はいまだに所謂有力者だった。地元の名士たちや古くからの知人たちは、付き合いの長さゆえか恩義ゆえなのか、彼の言葉を疑うことをしなかったのだ。
探ろうとするまでもなく、伯爵は街に出てきて娘のことを触れ回った――かつてはイヴが伯爵令嬢として愛されただろうこの地で、彼は娘の尊厳を貶めた。
「私は娘に陥れられて犯罪者に仕立て上げられたのだ」
「あれは狂っていた。社交界に対応できず、ついには精神までが狂い、ありもしない流言をゴシップ誌に持ち込んだ」
「あれは若くして男を手玉に取り、駆け落ちをするような女だった! ロンドンに行ったばかりに、私の人生は滅茶苦茶になった!」
彼の自分勝手な演説には、それでも人が集まって耳を傾けた。彼が逮捕されれば恩恵を受けられなくなりでもするのか、中には彼に倣ってイヴを罵る者までいた。
物を知らない人間によって、彼女は死後も傷付けられる。死後も、殺され続ける。
父親の悪意で――大衆の迎合で。
(何故、こうなる)
心を、暗いものが浸食していく。少しずつ、少しずつ。
妄言を耳にする度に。妄言に囚われる人間を目にする度に。
権力のある人間が言うことが正しいのか――権力のある人間の言葉が、いつだって支持されるのか?
街全体にある歪み。
この街では、貴族の言葉が正義を超えていく。
演説を聞く人々が本心から信じているのか、信じる振りをしなければならないのかは私には分からない。でも、どちらでも同じだ――どちらでも、許しがたいことだ。
あの子が見てきた苦しみを、あの子が感じていた絶望を、私は今まで知らずに生きた。それが、幸運でなくて何だろう。
彼女が私を殺そうとしたのも、今となっては私への憎しみだけが理由ではなかったとわかる。
彼女は全てを憎んでいたのだ。
こんな醜悪な世界を憎んでいて、それでも刃を向けられるのが、私に対してだけだった……。
彼女には、頼れるものがなかった。自分の正義を貫くための力を持っていなかった。それは――哀れなことだ。責めるのは間違っていたのかもしれない。
(……もう、怒ってないわ。イヴ)
自分の持っているものを考える。環境を振り返る。自分が、どれだけ恵まれているか。
私は、――幸せだ。
彼女を苦しめたものを、私が糺さなくてどうする。
現実を見つめて数日。
目に映る全てを諦めて、見限って、その後。
「やっぱり、駄目みたいです」
私はモランさんの部屋を訪ねてそう伝えた。
部屋は暗かった。腕を組み直しながらこちらを見つめるその表情が読み取れないのは、きっとそのせいではないだろうけれど。
そうか、と、ひとつ頷かれる。次の言葉まではたった一拍しか間がなかった。
「戻れないぞ」
目を伏せて告げられた短い言葉。
それでも頷く以外にもう選択肢はなかった。