歪んだものは自分では気付けない。環境の変化によって、気付く者が現れるかもしれない程度だ。
あの街の歪みは、ハーディング邸が滅んで変わるのだろうか。
(それこそ、どうにもできないことだ)
いつも通りに目覚めた私は、やがて部屋の窓に小石が当たる音を聞いた。一度は以前固く決めた通り無視してみたのだけれど、二度三度と諦めない意思が感じられたので根負けして立ち上がる。
先の計画では、私の恨みのこもった目を見たからなのか全面的に協力してくれた。充分償っただろうと言われればそうなのかもしれないし、それに、――頼みたいこともあった。
準備を済ませて庭に出ると、ポーロックがそこに立っている。いつも通りの皮肉な笑みを浮かべて。彼はにやにやとした笑みを隠そうともせず、一歩私に近付いた。それにつられたのか、偶然かどうか――木々が風にざわざわと騒いだ。
「可哀想だと思わないかい」
「……誰が?」
「ベネット君と僕だよ。だって、あれだけやったのにさ」
嫌だ嫌だ、と彼が首を振る。
「ごめんなさい。でも、お父様の許可はいただいたから」
「見事にひよっこ犯罪者ってわけだ。そりゃ教授には計画の文句なんか言えないから、お嬢さんの指示の方が気楽だけどね」
ひよっこ犯罪者。なんという侮蔑的な響きだ。とはいえ否定する言葉も見つからないけれど。
「本当に助かったわ。まったく疑われなかったし……」
「そりゃそうだよ。馬鹿にしてるの?」
ポーロックが偽造したうえ各所に送ってくれた告発状は、ハーディング伯爵の社会的地位を地に落としてくれた。本人は謎の銃殺によって命を落としたが、未だに彼の所業を非難する声は止んでいない。
謎の銃殺。
当然のように、手掛かりなしの未解決事件。
これは天罰だと。神が彼を殺したのだと言う人もいる。
(……そんなことがあったら、どんなにいいか)
「ごめんなさい。お礼を言いたかったの」
本当かなあ、と彼は呟いた。私が誤魔化していると、思い出したように問われる。
「しかし、モランがよく許したよ。どうやって説得したんだい? お嬢さん」
「ううん、認めるにはまだまだって言われてるから」
「向上心が高くて結構だよねえ……」
ポーロックは嫌そうな顔をして顔を逸らした。私は移動してその気まぐれな目と視線を合わせる。珍しくとらえることのできた瞳は、今日は深いブルーに揺れていた。
秩序のために動いてくれる人。
私の助けとなってくれる人。私の描いた未来を実現させるだけの力を持つ、特別な存在……。
「……何?」
「あなたにも、これからはお願いすることが増えるわ。私一人では何もできない――だから、助けて欲しい」
真剣に伝えたつもりだった。
ハーディング伯爵が死に、他の家族たちもじきに裁かれる。計画の無事な遂行を見届けた私は、正式にお父様の「仕事」に近付いて学ぶことを許された。今後も同じようなことをして生きていくことになる。
社交界の蓑に隠れながら。善い伯爵令嬢として微笑みながら。
そんな生き方を貫くのに、彼の手がどうしても必要だ。私の訴えに、ポーロックは飽き飽きした様子で手を振る。
「お嬢さんにはベネット君がいるだろ。僕なんかもう引退したい気分だよ」
「ああ――ポーロック。これを、その彼に届けてもらいたくて。万一にでも他の人に見られたくないの、読んだら処分するようにも伝えてもらって……」
「は?」
私は部屋から持ってきた封筒を彼に手渡そうとした。彼はうんざりした目で私の手元を見たままで受け取ってくれない。
「何それ」
「結婚はできない、って書いた手紙」
「なんでだよ」
「なんでって、分かり切ってるでしょう?」
意地でも手を差し出してくれないポーロックに、私は頭を下げた。やめてよ、と言われても諦めることはできない。わずかに声に力がこもったのは、きっと自分がしたことについての唯一の後悔ゆえだった。
「人を殺したのよ。確信を持って、待ち構えて。そんな女とあの人が、一緒になれるわけない」
戻れない。
相手が誰であれ、そんなことは当たり前だ。自分でも分かっていて選んだ。
彼は、私の将来を本気で考えてくれた。だから私も彼の将来を本気で考えたい。
彼のことは――好きだ。そしてそれ以上に、大切だ。彼を殺人者の夫に置くことなんて絶対にありえない。それで私が動きやすくなるなど、自分勝手もいいところだ。
それでも私には、自分がお父様の娘であることから目を逸らすことができないのだ。
会いたいとは思う。ずっと彼のことを想っていたいとは思う――でも。これから先も彼が協力者として関わってくれるのだとしても、それはお父様に対しての理性的な協力であるべきだろう。
あの優しく誠実な瞳に触れるたび、痛いほどそう思わされた。
「……じゃあ、やんなきゃいいのにさ」
耳に届いた声色は本気で呆れていた。そのままこの場を去ってしまいそうな冷めた感情が伝わってくる。
「ポーロック」
「告発状だの手紙だの、僕は郵便屋さんかよ」
そう言ったのを最後に、私の指から封筒が抜かれた。
軽く紙の擦れる音。髪を揺らした木枯らし。その手紙が旅立っていったことを知って、心に何か穴が空いたような気分になった。