手紙を送りつけたのは私だけれど、それでも返事が来ないと密かな焦りに襲われた。
中身のことなどとても話せないけれど、日に何度もルーシーに郵便のことを尋ねて不審がられる。ヴィクター様もいつだったか私が手紙を無視していたとき、こんな心境だったのだろうと勝手に想像する。
計画に協力してくださって、ありがとうございました。
伯爵は社会的地位を失い、そして、人を苦しめ続けた自分の人生をも失う結果になりました。
彼の命を奪ったのは、私です。
全てを失ってもなお娘を傷付ける姿を見ていられなかったのです。
私に、あなたと結婚する資格はありません。この内容を胸に留めていただいて、手紙は焼いてください。
あなたの人生に影を落とさないことだけを望んでいます。
(……捨てていかないといけない。光の下は、もう歩けない)
(でもそれは、お父様も同じ)
何度もそう言い聞かせた。自分の選んだ世界が間違っていないと信じるからこそ、出来ることだった。
心の一部を焼き切って、それでいいと思えた。正しい選択をしたと思った。
だから――ルーシーが大喜びで私のところに来た時、目を疑った。
「お嬢様! いったい何事かと思いましたら、『あれ』を待っていらっしゃったのですね!」
「『あれ』?」
「ベネット様からの郵便ですよ! 早速、たった今、ラインハルト様にお渡ししてきましたからね!」
「ええ?」
ヴィクター様からの郵便。お義父様に渡した……?
「それ、本当にお義父様宛て?」
「あれがラインハルト様宛てでなくて、何なものですか!」
ルーシーはにこにこしていてまったく話にならない。彼女をこれほど笑顔にさせるもの――恐怖すら感じた私は、お義父様の部屋へ向かった。駆け足になるのももう構わずに。
「お義父様!」
「ああ、アズ」
ノックもせず扉を開けた娘の暴挙にもお義父様は怒らなかった。その表情にはいっそ穏やかな笑みが浮かんでいる。
「とうとう来てしまったから、仕方ないね。まあ、調整は必要だろうがね……」
「来てしまった、って」
お義父様がひらひらと振る書面にあるのは、――彼からの、結婚の申し入れだ。
「な」
「これほど世間的にも立派になられては、誰も反対しないだろう。……うん? どうしたんだい、アズ」
「なんで……わ、私、なんで」
「失礼いたします!」
一切まともな言葉が出てこず固まる私に、ルーシーの突き抜けて明るい声が重ねて襲い掛かってきた。心が追いつかない。何故突撃してきたのかと問う間もなく、彼女の後ろについて部屋に入ってくる影。
私はとうとう目眩すら感じた。頭の中が混乱してぐちゃぐちゃだ。お義父様が持っている書類も、それを送った彼のことも全部。
「あなたという人は、本当に……」
私を見て溜息でも聞こえてきそうな声を発した彼に、お義父様が眉を潜めて目を向けた。
「君はいつも、少しタイミングが良すぎるのではないかな」
「不躾に申し訳ございません。お送りしたものが届いた頃と思い参りましたが、是非にと言っていただきまして」
「もちろんでございます! そうでしょう、ラインハルト様!」
――ヴィクター様。
現実を認識し、私はたまらず彼に詰め寄った。
「な、何ですか、これは! だって、……だって、手紙は」
「手紙? あれなら焼いてほしいとありましたので、焼きました」
「ヴィクター様!」
心底どうでもよさそうに言い、彼は私をすいと見下ろした。その目に射抜かれると、言うべき文句が出てこなくなる。
ずるい――だって。だって!
しばらく声にならない文句をぶつけているうちに、ルーシーは意味深な笑顔とともに下がっていった。味方がいないと気付いてパニックになりかけたところを、「アザリー」と制される。
犯罪者が恣にしていた社会的信頼の失墜と、亡くなられた個人の尊厳を汚す行為の制圧。
矛盾しない目的です――と、理性に溢れた声が囁く。
「百パーセント正しい行為ではないでしょう。だがそれを自覚しながら、我が身を犠牲に正義を追求できる人間は限られる」
彼が、ひとつひとつ紡ぐ言葉。
私の目を見るその視線は一度だって歪んだことがない。
「あなたは、類稀なる頭脳と精神を持った秩序の申し子だ。神格化するつもりはないが、――私は、あなたがどう生きていくのかを見届けたい」
「……だって……」
「それとも、今回の働きでは見合いませんでしたか。何度あなたの役に立てば、私が必要だと思っていただけますか?」
「そんなこと!」
勢いよく顔を上げた私の視界。そこに彼の差し出す手と、他所でやってくれと言わんばかりのお義父様を捉えたら。
この手を取ってしまったら、もう離せない。
自分の生き方が決まったのに――その生き方に彼を巻き込んでしまうのに。
彼の覚悟はもう決まっているのだ。私の決意ごと呑み込むような目がそこにある。
(秩序の、申し子)
彼は私のことをそう呼んだ。
守れるだろうか。今守りたいと思っているものを、守り続けられるだろうか。
自分の中に広がっていく温かい気持ちが、いつまで熱を持っていてくれるのか。恐怖の中でも進んでいく以外の未来を思い描けない。
進んでいきたい。彼の隣でならそれが叶うと思う。
拒絶する言葉が、拒むための理由がもうすべて尽きてしまった。
「……私は、とっくに……」
限界を感じて、その場にへたり込んだ。もう何も取り繕えない。それでやっと言葉になった私の感情を拾うように、彼が微笑んだ。
求めてはいけないのだと思っていた。
求めたら、彼も一緒に落ちていってしまうと思ったから。
「結婚してください、アザリー。秩序を愛する者として――どうか私の妻に」
気付けば私は差し伸べられた手を取っていた。
寄り添うと、共にあると宣言するように――彼の手が、強く私を引き上げた。