奥様、とまた声を掛けられる。戻ってきたルビーは紅茶の準備をしながら私に二つのカップを見せた。
「どっちがいいでしょう?」
「あなたが赤を使ったら? ルビー」
赤と黄色と。鮮やかな色が好きな彼女らしいチョイスに文句をつけたことはない。ないけれど、最近どんどんビビッドな食器が増えてきているような……。
でも、ルビーがそうですよねと嬉しそうにするのを見ていると、まあいいかと思ってしまう。
私はデスクからラウンドテーブルの方へと移った。紅茶の香りが部屋に柔らかく広がるのを感じつつ私はルビーと向かい合った。
その時、彼女が急に呟く。
「奥様は、お優しいです」
「……どうしたの? 急に」
「あたし、こんな暮らしができると思ってなかったです。こうやって、好きなお茶も食器も買ってよくて。たまには奥様とお茶して……」
昔の彼女には自由がなかった。
今の彼女がもう語りたがらない過去がどれだけ重いものだったかを思うと、胸の奥に鋭い痛みが走る。――この世にどれだけひどい人間が存在するのか、もう知っているつもりだから。
「……ルビー。あなたが言ったようなことは、この屋敷では普通に出来ることよ」
「はい?」
カップに目を落としていた彼女が、ぱっと顔を上げる。
まだまだ幼い顔つき。
私が何にも不自由せず暮らしていた頃にもこの子は苦しんでいた。そんな変えられない事実が私の中ではいまだに重い。
「あなたが望むことを――それに、あなたがまだ知らないから望まないでいることを、私は叶えていきたいと思っているから。忘れないで」
勝手な罪滅ぼしのように私は言葉を続けた。ルビーはきょとんとした顔のままだったけれど、やがて笑う。
「……ありがとうございます。楽しみですねぇ」
「何か、やってみたいことはない?」
私が父に言われてきたようなことを、ついこの子にも言ってしまう。私の問いかけにルビーは少し考えてから、そういえばと目を輝かせた。
「パーティに出てみたいなぁ。そうしたら綺麗なドレスが着られるんでしょう?」
「……そんなに、いいものでもないのよ」
笑って言うと、ルビーは不満げに唇を尖らせる。
「えー! でも、奥様はよくお出掛けされてるじゃないですか。ドレス着て! 馬車を使ってー!」
「行きたくて行ってる訳じゃあないんだけどね」
無邪気に言うルビーは、今はここで楽しく過ごしてくれている。そう信じてこの子を守らないといけない――そう思いつつ再びカップに口を寄せたとき、こちらへ近付いてくる足音に気がついた。
「あ!」
ルビーが慌てたような声を上げる。私はつい時計へ目をやった。軽いノックに応じると、扉が開く。
「お帰りなさい、旦那様! 奥様と楽しくお話してたら、お出迎えなんて忘れちゃってました!」
「正直な発言も、毎日の出迎えも特段不要ですよ。ルビー」
元気な申告にも微笑みながら真面目きわまる返答をするその人。私は立ち上がって彼へ歩み寄る。
「お帰りなさい。ヴィクター」
「ただいま」
彼は見下ろした私の髪を軽く梳いた。昔から彼がよくすることだ。そのまま私の顔を見つめてくるので私も同じようにしていると、彼はわずかに首を傾げた。
「何故、悲しそうな顔をしているんです」
「……そんな風に見えた?」
「ええ」
少し表情を曇らせているかも、くらいのことによく気付くものだと思う――いつもいつも。私は苦笑して軽く手を振った。
「何でもないの。ちゃんとしないとなって思っただけ――それは?」
「下でコリンズから預かりました。あなたに郵便ですよ」
「ありがとう」
ヴィクターは執事の名を出しつつ、手にしていた封筒の束を差し出す。こちらは「社交界」の方の招待状――なんとなくデスクの上のファイルと見比べてしまう。
「奥様、パーティですか? パーティですか!」
「そうね……」
招待状の差出人を軽く確認して、見たいと騒ぐルビーへ横流しする。嬉々として封筒を眺め始める彼女を視界の端に置きながら、ヴィクターは苦笑した。
「だいぶ、集中していたようですね」
「計画はいくつか送ったところなの――そろそろ、どこかのサロンにでも顔を出さないと」
「無理をすることはないでしょう。あなたはもう、社交界に精力的に出なければならないような立場ではないのだから」
ヴィクターの銀行は、すっかり地位を確立した。
もっとも彼は結婚した当時も充分すぎる名声を手にしていたし、だからこそすんなりと一緒になれたけれど――彼の天才的な経営手腕は未だに注目の的だ。
結婚したことによって、人間関係に翻弄されつつ招待をがむしゃらに受ける――というようなことはなくなった。
役割が変わったのだ。
サロンを主催する側となったり、未婚の令嬢から声を掛けられたり――政治的な話を持ち掛けられたり。これはこれで面倒なことも多いけれど、それでも結婚する前よりは気が楽なのも確かだった。
「確かにね。でも、出て悪いことはないから。情報も集まるし、それに」
「何です」
「……あなたの役にも立ちたいから。あなたと繋がりを持ちたくて、まずは私にって声を掛けてくる実業家。かなり多いのよ」
ヴィクターは私の言葉を聞いて眉を顰めた。そういう輩だという時点で不適格ですね、とにべもない答えに笑ってしまう。
「奥様! あたしも、あたしも役に立ちたいです!」
「ルビーはもう充分役に立ってくれてるわ。パーティ、良さそうなものはあった?」
「全部良い感じです! 全部行きましょう!」
「そう……」
天真爛漫に言われてしまった。できたら絞ってもらいたい。ヴィクターの手が軽く肩に乗った。
「私のことはいいですが――あまり気を張らないように。サロンも、興味があるもの程度で良いのでは?」
「そうする。ありがとう、ヴィクター」
彼の名前も、思えば呼び慣れたものだった。
いつでも変わらない目で私を見るから、安心できる――私も、変わらずにいられる気がする。
彼の存在が私を繋ぎ止める。この人の妻であるという事実が、私を社交界の波から守ってくれるのだ。