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三年後、あるいは十年後 03

(どうしようかな……)

 結局、ルビーはパーティの招待状の「選定」を清々しい笑顔と共に諦めてしまった。私は夕食を終えた後の空いた時間を使って、ようやくそれらに目を通し始める。

 お茶会。食事会。先程そっと見なかったことにしたウィンザー侯爵夫人からの「紅茶の会」は、流石に出ない訳にもいかない。

 その一際豪奢な封筒を脇に寄せつつ何かもう一つくらいと探して目に留まったのは、とあるサロンへの誘いだった。

 上流階級の主催するサロンには、さまざまな種類がある。情報交換、文化交流。政治についての議論の場。それに、音楽や芸術、学問を愛する者などが集まる真面目なものも多い。

 サロンは女性が主宰となることが多く比較的平和なのでたまにはいいと思ったのだけれど、今回の誘いには特に気を引かれた。

(聾教育……)

 私もかつては聴覚障碍者だった。あれから耳の問題が再発したことはないけれど、昔は音が何かもわからない世界に生き、手話を使って生活し――同じ聴覚障碍の子供の助けとなるためのボランティア活動をしたこともあった。

 私の人生が大きく変わったその始まりであり、大切な思い出――そして心なしか苦い記憶でもある。

 当時その施設で子供を人身売買の商品にしていた男は無事裁かれた。ただその時のボランティア活動自体は、手術を決めたことなどによって中途半端なまま終わってしまっていたのだ。

 今は――十分な資産もあるし、慈善事業に参加することだってできる。まるであの頃の心残りが目の前に現れたかのようだ。

 私は招待状の案内文を目で追う。

 サロンの招待が送られているのは、比較的立場の落ち着いた貴族たちらしい。

 新たな寄付先の選定あるいは慈善事業の参考とするため、最近注目されている聾教育について学び、議論する。

 当日は、民間人でありながらその方面での支援活動が高く評価されている事業家を招く。名はヘンリー・ペンドルトン――上品な名前だが、どことなく平凡で聞き覚えがあるような感じを受けた。

(事業家……立派な方がいるものだわ)

 慈善家と聞くと妙な勘繰りをしたくなるのはもうどうしようもないけれど、聾教育の支援で貴族にも名が知れるなんて並大抵のことではない。きっと精力的で目立つ活動をしているのだろう。

 まだまだマイナーではあるだろうが、聾教育なんてテーマでサロンが開かれるということも感動的に思えた。

 あんな男がいなくなったとしても、聴覚障碍を抱える子供のために活動している人がいる。それだけでその人物に会ってみたいような気がしてきた。

 会いたい。話をしてみたい。昔の自分が迷子になっているのを見つけたような気分。

 私はすぐに返事を出した――これほど積極的に参加の回答をしたのは、久々のことだった。


「奥様、本日はなんだか楽しそうでいらっしゃいますね」

 ルーカスが馬を操りながらさらりと言ったので、私は苦笑してしまった。

「……ルーカス、ヴィクターみたい」

「恐れ多いことです」

 専属の御者である彼は、壮年ながらもまったく隙がない。かつてはお父様が移動する時の運転手を務めていたこともあるらしいが、本人はもう引退した身だと涼しい顔をしている。

 今でも健在の、目の奥の鋭さは――組織の人間ならではのものだ。そう私は思うけれど。

「本日は、どのような集まりで?」

「聾教育の勉強会なの。ほら、私、昔は耳が聞こえなかったから……今でも興味があって」

「何か、『観察対象』があるものではないのですね」

「ええ。完全に自分の興味の範囲」

 私の返答を聞いて、ルーカスの声はわずかに柔らかくなった。

「それなら、安心です」

「どうして? 仕事をしろ、じゃないの」

「奥様は色々と考え過ぎるところがあるから、息抜きをしてほしいと旦那様が仰っていましたよ。まったく同感でございます」

 ヴィクターは屋敷の者たちとも上手くやってくれている。それどころか、男性陣たちとは特に気が合うようだ。

 冷静で合理的なメンバーばかりだから、当然のことなのかもしれない。今日も商談で忙しくしているだろう彼の姿がつい想像された。

「もちろん、何もないのが一番いいわ。今日集まっているのは、真面目な人ばかりのはずだから」

 今回の主宰、レディ・ハミルトン――エリノア・ハミルトン侯爵夫人とは、今までも良い関係を築いてきた。

 落ち着いた雰囲気を持つ上品な方で、慈善事業にも特に積極的。年長者でありながらも私が安心して関わることのできる貴族の一人だ。

 だから彼女の屋敷のサロンルームに訪れるとなっても、私の心は久々に穏やかな期待で満ちているのだった。

「結構なことです。妙な動きがないかは念のため確認しておきますので、どうか楽しまれますよう」

「……苦労をかけるわ。ありがとう」

 大したことではありません、と首を振られるのもどこか切ない。

 私に託されたのは、能力こそあれど平和な生活を望む者ばかりだ――彼らを、不用意に傷付けるようなことはしたくない。

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