不穏さから私を束の間引き離すように、大きな窓から自然光の差し込む広いサロンルームが私を迎えてくれた。
高い天井にシャンデリア、肖像画。集まりによっては鬱々とするような装飾たちも、ハミルトン侯爵夫人の趣味のよさ故に優雅な空間を演出している。
(これは……)
加えて目を引いたのは、片側の壁とテーブルを利用して何か展示がなされていたことだった。
人が集まるまでと思って近寄ってみると、そこには聾教育についての本や資料、図版が並べられていた。このようなスペースを用意する夫人の真面目さと心遣いが見え、心が和らぐ。
一冊手に取って眺めはじめたとき、まさに思い浮かべていた優しい声が隣から掛かった。
「レディ・アザリー。来てくれて嬉しいわ、あなたならきっと興味を持ってくれると思っていたの」
「レディ・ハミルトン。この度はお招きいただいてありがとうございます」
振り返ると同時に、とても美しいシルクのドレスが目を引いた。侯爵夫人はいつも通りの品格に溢れた仕草で丁重な挨拶をし、私が手にした資料を見て微笑んだ。
「あなたはいつも落ち着いているし、勉強家だわ。今日もあなたにとって良い出会いを提供できますように」
昔は、社交界は恐ろしい場所だという危機意識の方が強かった。それでも長くその身を置いていれば、気高い精神の持ち主だって多くいることを知る。
私自身がそうありたいとも、思うようになった。
「光栄です。ペンドルトン氏のお話が伺えること、楽しみにしています」
「彼は素晴らしい事業家よ。実りある会になるはずだから、よろしくね」
夫人はにっこりと微笑み、他の参加者たちの元へ向かっていった。参加者は……集まり具合からいって、二十人には満たないくらいだろうか。知った顔も多い。
サロンルームは広く、ティータイムを楽しむための歓談スペースとは別に椅子が半月型に並べられた場もあった。おそらくはそこでペンドルトン氏の講演が行われるのだろう。
私は展示の中でペンドルトン氏の略歴がまとめられた部分に気付き、何とはなしにその文章を目で追った。
年齢は四十六歳。民間の実業家でありながら慈善事業、主に未来ある子供の教育に興味を持ち、若い頃から支援活動や寄付を行ってきた。
現在では安定した事業の傍ら教育にかかる慈善事業に力を入れている。ここ最近では聾教育についての提案を積極的に打ち出しているそうだ。
異色といえば、異色の経歴。
貴族でないにもかかわらず慈善事業に力を注いでいるとは、どれだけ善良な人物なのだろう。貴族の目に留まるのも頷ける――同じく展示を見に来た女性が、一拍置いて私の姿をみとめた。
「レディ・ベネット。ごきげんよう」
「ごきげんよう、レディ・スペンサー。先日は夫ともども、ご挨拶できて光栄でした」
「ありがとう。私の方こそ、素晴らしい時間でした」
彼女はヴィクターの銀行を利用している伯爵の奥方だった。銀行家関連のパーティで一緒になったことがある――彼女は微笑み、展示のほうへ目をやった。
「今回のゲストについては、ご存知?」
「いいえ。お知り合いなのですか?」
「話には聞いていますよ。民間人でありながら、素晴らしい慈善家です――ペンドルトン氏は昔、聴覚障碍の子供を養子に取ったのです。聾教育に興味を持ったのも、その子の影響とのことですよ」
私は感嘆の息を小さく吐いた。昔のボランティアのことが改めて思い出され、他人事とは思えなくなってきた。
「では、お子さんのために? 素敵なお話ですわ」
「ええ。ですが何と、彼に聾教育についての提案をし始めたのはその子の方からだったそうなんです。彼が障碍をものともしない天才だという話があって、私もぜひ会ってみたいと思いましたの」
彼女の話はなかなかに衝撃的だった。
聴覚障碍の子供が、聾教育の提案? それに、その子の提案に乗って事業を進めているペンドルトン氏の器も窺い知れるところだった。
昔の私も、聴覚障碍の子供たちの力になりたかった。たとえ障碍があったとしても生きるための力を、未来を切り開くための力をつけてほしい。
そのための施設だと、あの時のボランティア先に対しても思っていたのに……。
伯爵夫人の話に出た「天才」だという子は、そんな私の希望を具体化したような存在だった。それほど優秀で、貴族にまで噂が知れているとは――このまま活躍できれば、聴覚障碍を持った子たちの希望になる。
いや、既になっているだろう。
「その子は、今日も来ているのでしょうか?」
「ペンドルトン氏は、彼をたいそう大事にしているそうですからね。まだ若いようですが、助手か何かという位置づけで来ているでしょう」
会える。そう思うと期待はさらに高まった。善良な貴族たちが集まったサロンルームで歓談が始まっても、私はペンドルトン氏が紹介されるのを心待ちにしていた――そして。
そして、私は「未来」と出会った。