ルビーもまた、少し離れたところで控えてくれている。その姿を視界の端に捉えつつ、私はリディアとソファに並んで掛け直した。
当たり障りのない話題から始めていくべきか、一瞬悩んだ。けれども私は少し打ち解けるきっかけになっただろう今のやりとりに続けて、素直に尋ねることにする。
「リディア。驚かせるつもりはないんだけど、あなた……無理をしていない?」
ぱっとこちらを見たその視線が、全てを物語っていた。彼女は首を横に振る。
「何のこと?」
「ごめんなさい。さっきの話のとき、あなたが辛そうに見えたから」
打算や思惑を抱えた貴族と話す時とはやはり違う。彼女の感情の動きは読み取りやすく、動揺によって彼女は言葉に詰まった。
「お父様とユアンのために、笑顔を作っているように見えたわ。詳しいことは知らないけど、あれはあなたにとって……明るく話せるようなことなの?」
踏み込みすぎるくらいの方が、正直な気持ちを引き出せそうな気がした。リディアの目はわずかに不本意そうな色を孕んだが、彼女は家族のほうを窺った後で小さく息を吐いた。
「アザリーさんって……よく見てるのね」
「『アザリー』」
「……アザリー」
彼女は少しの間でなにか言葉を選んだようだった。やがて少し緩んだ口調で語り始める。
「私が悪いのよ、あれは」
諦めたのか、何なのか――彼女がそう打ち明けてくれるまでには、あまり時間が掛からなかった。そのことを疑問に思いながら話に相槌を打つ。
「私、父が起こした事件で身寄りがなくなって。それで、この家に引き取られたんだけど」
「ええ」
「引き取ってもらったばかりの頃、皆が私に、可哀想なくらい気を遣ってくれて……話題にも困っている感じだった。だから私の方から有名人に助けられて幸運だったって話ばかりして、空気を明るくしようとしてたの」
二人で話す時のリディアは、先程までと少し感じが違っていた。敬語が外れたこともあり、淡々とした印象がより強まって彼女の本来の性格が少し見える。
周囲をよく見て――順応する能力。
大人しく物静かなだけでない、意思ある目。
「だからあの二人も勘違いしちゃってね。私が、自分を助けてくれたあの名探偵をヒーローだと思ってるって。あの事件が、悲劇だっただけじゃないって……変えられない過去を明るい話に持っていくには、そのくらいしか思いつかなかった」
「それで、二人もああして話題にするようになったのね」
「ええ。私に気を遣おうとし続けてくれた結果なの、優しい人達だから。でも」
「……でも? 彼は、ヒーローじゃなかった?」
私の静かな問いに、リディアは小さく頷いた。
頷いた?
「私の父は、母を……。でもあの探偵は、父を牢獄に送ってしまったから」
(これは……)
今度こそ、完全に予想外。
私はわずかに生まれた沈黙を使って彼女の発言を反芻した。
普通の人間が聞けば、犯人が逮捕され牢獄に送られることは喜ばしいことだ。それを彼女は「送ってしまった」と言った。父のことを守りたかったからでないことは、表情から明らかだった。
父のことを擁護するのでなければ――発言が意味するところは一つしかない。
手の届かないところに送ってしまった。
復讐することができなくなった。
「リディア」
私はそのとき彼女の瞳の奥に宿る激情を見た。目的を達するまで決して消えることのない復讐に燃える火を見た。彼女がどちらかといえば「私寄り」の人間であることを――悟ってしまった。
母を殺した。その罪からも逃れようとした醜悪な男。
牢獄入り程度のことで許されるものか。
私には彼女の心情が手に取るように理解できた。彼女が腹に溜め込み続けてきた憎しみが、ふとしたことで自分の中に流れ込んでくるような気さえした。
「……お父さんのこと、許せないのね」
「ええ。殺してやりたいくらいよ」
彼女はとても軽い調子で、いっそ笑いながらそう言った。
「でも、今の父を……犯罪者の父親にしたくないの。可愛いユアンのことも、犯罪者の弟にしたくはない。それは……私の望むことじゃない」
消えない復讐心が、それでも二年もの間燻っていたのには理由がある。彼女はやっと他人に内心を打ち明けたことで自分に掛けていた鎖が外れたようだった。私にというより、自分に向けて語る。
「このまま穏やかな暮らしを続けていけば、この憎しみも薄れると……こんな復讐心なんて消えていってしまうんだって、ずっと。ずっと自分に言い聞かせてる」
言い聞かせている――ということは、不可能と分かっているということだ。
それでも彼女は自分を、自分の犯罪者的な思考回路を抑え続ける。
善い家族に見合う、善い人間であるために。
こんなことをなぜ初対面の私にリディアがここまで打ち明けてくれるのかも、今や理解できる。
彼女はずっと自分の中に燃える感情を抑えてきたのだ。新しい父と弟を傷付けないために――こうして自ら冗談めかして話すことで、自分の中で暴れる激情を抑えつけてきたのだ。
実行はしない。してはいけない。そう自覚するために。
怒りを昇華するために。
本来許容されることのない憎しみを――ただの冗談だと、昇華するために。
それがどれだけ身を裂くような痛みを伴うことなのか私はもう知っている。自分自身の心さえも冷え切っていく感覚に、彼女の絶望を抱きしめたくなる。
「リディア。大丈夫」
私は隣に座る彼女の手元へ視線を送った。その手は固い拳の形となり、血が滲むのではと思う程に握り込まれている。
自分の手を重ねるとひどく冷たい。
(ほら、シャーロック・ホームズ)
頭脳だけでは、正義だけでは――何も救えていないじゃないか。
彼女は重なった手の感覚にはっとしたようだった。
「――ごめんなさい。こんなこと、私……」
不思議がるような呟きに私は頷いた。
手を汚さなければ救われないものがあることを知っている。そんな者同士がきっと共鳴できたのだと私は信じた。
それに、私は一抹の罪悪感も自覚していた。あの時、シャーロック・ホームズの手が入ったからという理由で組織は彼女の父を処分せずに捨て置いた。そのことが、彼を司法の裁きに乗せたままにしたことがリディアを苦しめている。
彼が今でも生きていることが、せっかく生き延びた彼女を縛り続けている。
イヴと違って、この子はまだ生きているのに。
まだ自分の人生を選択できる「友達」を前に、私はかつての記憶を辿った。不安に揺れる彼女を守りたい、力になりたいという思いが確かに自分の中に生まれている。
「ねえ、リディア」
私は静かに囁いた。
「次に一人で外出するのはいつ?」
「……夕方。郵便局に行くわ」
戸惑ったような声が答える。私の微笑みの種類が変わったことに気付き、彼女の表情もわずかに強張る。
それでも声を上げることはしないし、何も問わない。自分で心を整理してから静かな目でこちらを見る。
流石に聡い。物事を理解する力を持っている。
「じゃあ、その時。誰かに声を掛けられたら、話を聞いてみて頂戴」
私はルビーに目配せした。彼女は当然のようにこちらを見て、それは可愛く微笑む。
想定とはだいぶ異なったが――目的は変わらない。
彼女を救うことができるのは、私達の方だ。