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取り零し 07

 その罪人が、為す術もなく床で眠る懲罰房。

 扉が音を立てずに開いた瞬間、ルビーが動いた。その男の腹部に踵を落とし、最初に声の自由を奪う。

 調子の悪い機械のような呻き声と荒い呼吸が数秒。そのうちに手足を拘束しきり、口元も塞ぐ――おまけのように時折暴行を加えていく。鮮やかなその手腕はまるで衰えていない。

 ……まさか私の見ていないところでも、この子、何かしているのだろうか?

 そんな場にそぐわない想像をする余裕があるほど状況は完全だった。

 事前の調整のお陰で誰にも見つかることはない。ただそこにいるだけでリディアの復讐対象は襤褸雑巾となって床に転がった。

「ふぅ」

 全く疲れてなどいないだろうに、ルビーがわざとらしく額の汗を拭うような仕草をした。ぱっとこちらを振り返る。

「出来ますか?」

 リディアは――自分よりずっと小柄な少女に対してわずかな抵抗もできなかった、そんな惨めな存在に視線を落としていた。その目には動揺も憐憫もないように見える。

 ただ、焼き付けている。

 自分が殺したいと願い続けた男が、どれほど恐るるに足りない矮小なものだったのか。

 理解しようとしている。

 虫でも見るような目で――観察している。

(……)

 ルビーはその沈黙を「まだ無理」というサインとして受け取ったのか、また愉しそうにラドクリフを蹴り始めた。まるで遊んでいるかのようだが、多分この瞬間にもまた別の骨が折れただろう。

 私が懐に持っているナイフを、差し出してよいのだろうか。

 リディアの様子に懸念していたほどの変化は表れなかった。かつての父のひどい扱われように心が動くということも、見る限りなさそうだ。可能性としては低い方かと思っていたけれども、ナイフを手渡せば普通に殺せてしまいそうな雰囲気がある。

 このままルビーに任せておけば、彼女が問題なく父親を殺してくれる。復讐心に変わりがないのなら、その光景を目にするだけでも充分なのかもしれない。

 後悔することになるのかもしれない……。

 ふとそんなことを思っていると、彼女がやがて私を見た。その目には確かに殺意が宿ったままだ。

「……やめておく?」

 私の問いかけに、彼女は首を横に振った。

 それはひどく冷静な選択だった。激情に駆られて動いてしまう方が人間的なものだ――それなのに彼女は、父親が目の前で痛め付けられるのをよくよく見て考えた。

 そしてその上で、自ら殺すのを躊躇うような気持ちが自分の中に生じていないことを確認したのだ。

 この子は暴走したりしない。それが分かったので、彼女にナイフを差し出した。震えもしない手がそれを受け取り、刃を検める。

 最後の親子の交流など何もなかった。

 リディアは殺人者の心臓の位置を迷いなく狙った。彼女の蓄積された感情が彼女を導いた。

「経験者」ではないのだからその通りにとは行かなかったのだろうが、その刃が躊躇もなく抜かれて一つの命を散らした。

 盛大な返り血は、黒い服を着ているくらいでは誤魔化せなかっただろう。あちゃーなどという軽いリアクションと共にルビーが頭を抱えるが、先に着替えさせておいてよかったというだけのことだった。

 死んだ男。

 亡骸。

 かつてはこの男が私の指示で動いたこともある、そう思って視線を向けてはみた。しかし自業自得という言葉以外は何も浮かばない。

(……娘だって、分かったのかしら)

 ふと浮かんだ疑問は、どうでもいいことだった。もうその答えを知る者はこの世にいない。

 後は、組織の人間がこの死を殺人ではないと隠蔽してくれる。遺体も処理されて何も残らない。

 終わったのだ。

 復讐を果たした女が、静かに息を吐いた。


 *


 無事にセキュリティを抜け、馬車に戻るまでもリディアの様子に異変はなかった。復讐を終えて昂るということもないし、殺人行為に魅せられた様子もない。

(稀に、こういう人間がいる)

 組織に犯罪を依頼してくる人間の中でも、自ら手を下すことを望む者。

 実際にそのための計画を与えれば、その通りに出来てしまう者。

 もちろん彼らのうち全員が異常者というわけではない。それだけ強い彼らの絶望が心から一時にでも躊躇いを奪い、実行へのハードルを下げるだけのことだ。

 とはいえ、その境界線を越えられる人間が「組織向き」である傾向も強いことは否定しようもない。

 それだけ憎しみを知っている。

 犯行の先に救われるものがあることを――組織の存在する意味を、理解することができる。

 現に、そうして組織の協力者となる者もいるのだ。

 けれども私は、リディアがそうしたケースを追うことはまったく考えられなかった。彼女自身も、きっとそうであるように。

「私、おかしいのかな……」

 リディアを着替えさせて返り血の処理を済ませ、馬車は静かに現場を離れた。比較的わかりやすく車内の空気が落ち着いたとき、彼女は私の隣でそう呟いた。

「どうしたんです?」

「私――あの男が苦しむのを見ても、死ぬのを見ても、何とも思わなかった」

 リディアの様子は、この時にこそ戸惑ったように見えた。彼女は父親に怯えて生き続けた人生や今の穏やかな生活に照らし、今の自分の恐らく異常な状態が嚙み合わないことのほうに齟齬を感じているらしい。

 そういうところも、犯罪指向だが……。

「あの男があなたをそうしたのよ、リディア」

 彼女の手を取り、目を見る。今のリディアの瞳には人間らしい戸惑いが宿っていた。私は彼女が確かに持つこの常識的な温かさをも奪いたいわけではない。

「あなたは他のものにはちゃんと心が動く。お父様のことも、ユアンのことも大切にしているじゃない。だからこそあなたは憎しみを抑えることができていたんでしょう?」

 お父様。ユアン。

 それを耳にして、彼女はやがて静かに頷いた。

 二人はリディアに復讐を禁じたのではない。彼女が自発的に自らを律していたのだ。彼らと家族であるために。

「リディア。あなたの復讐を無事に完遂させた代わりに、守ってもらいたいことがあるの」

「……何?」

「今日起きたことを、良い記憶にしてはいけない。あなたの成功体験にしてはいけない。私たちはそれを守るために、乱暴な手段を使うかもしれない――でも、決してあなたを傷付けたい訳じゃないってこと。理解して欲しい」

 リディアは私の発言の意味がよく分からないようだった。それでも反発する様子はなく、また頷く。

「あなたの悲しみが分かったから手を貸したわ。でも今日で終わり。このままあなたが大事にしている生活を続けていって。犯罪行為にも、二度と関わらないように」

「……出来るかな」

 彼女が不安そうにしているのは、やはり「一線を越えた」という認識が彼女の中にあるからだろう。それでもその意識の方が明らかに強いのであれば、きっとあのナイフを振り下ろすことはできなかったはずなのだ。

 彼女は善良な人間でありたいという思いを持ちはしても、父親を殺さなければよかったとは思わない。

 それなら、それでいい。導いたのは私だ。

 それで彼女が、凄惨な過去を持った一人の女性がもう自分の心を傷付けずに済むのなら。新しい家族と幸せな人生を歩んでいくために復讐が必要だったと言うのなら。

「大丈夫。あなたが愛する家族との生活は絶対に傷付けさせない。だからこの件については、たとえ何があったとしても――すべてを闇に葬ると、約束して」

 分かったわ、とその唇が動くのを見届ける。リディアは賢い。きっと上手くやるだろう。

「何があっても」、大丈夫だろう。

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