その影は、ペンドルトン邸の窓際に立っていた。
(見ている)
わずかとはいえ街灯があるから、見えるはずだ。
リディアがルビーの手を借りて馬車から降りたとき、私は目で合図した――ルビーがリディアの首元に手刀を打ち込んだのだ。崩れ落ちるように意識を失った彼女をルビーが支え、そのまま苦もなく抱え上げる。
私の仕事は、その影とずっと目を合わせていること。
その影が、ルビーによって寝室へ運び込まれる姉の安否を探るよりも――信じられないという目を私に向けていてくれるように。
目の前で起きたことを、すぐには呑み込めないように。
(ユアン)
時間が止まったかのように見つめ合って数分。ルビーがユアンに接触し、彼を伴ってこちらへ降りてくる。
深夜とはいえ、あまり時間がない。私は彼が私を見る目に明確な怒りが宿っていることを確認した。
「〈待っていてくれたのね〉」
「〈どういうつもりだよ〉」
リディアを連れ出す時、彼に知らせておいたのだ。
――お姉さんを連れて行く。戻るのは深夜。
「〈姉さんに、何をした?〉」
きっと彼は怒鳴りたいのだろうな、と思った。
本当に怒っている時。本当に危機感を持っている時。
そんな差し迫った瞬間でさえ声が出ないし、耳が聞こえない。相手の理解を求めて必死に手を動かすしかない。
その絶望はよくわかる。
(あなたを助けたいと思った時が、そうだった……)
自分が、ユアンの声が出ないことを都合がよいと考えるような。
彼の性質を、その性格を、築いてきた信頼関係を利用するような人間であることに心が痛む。
ユアンがこの状況では叫ばない、人を呼ばないと分かっているからこんな計画を立てることができるのだ。
「〈姉さんに何をした?〉」
その焦った形相が、あの時の自分を見ているようで辛くなった。形振り構わず謝罪してしまいたいような気にもなった。
でも――リディアが後日、賢いこの子に直接変化を悟られてしまうよりいい。
私に不信感を抱き、姉を守ることに意識を向けてくれた方がずっといい。
「〈誓って、危害は加えていないわ。ねえ、ユアン――後日、あなたを屋敷に呼ぶ。そこで説明する。どう?〉」
姉が深夜に姿を消し、帰ってきたと思ったら少女に昏倒させられた。
その少女を後ろに控えさせた私がこんなことを提案したって、何も信じられる訳がない。それが普通の感覚だ。
けれどもこの子は聡い。
予測できるだろう――記憶を呼び起こすことができるだろう。
夜に姿を現した私を。犯罪者の元から救い出され、その正体もわからないまま保護された夜のことを。
その相手を信じて、警察への偽りの証言へ力を貸した過去を。
「〈……事情があるって言うの〉」
「〈ええ〉」
理性的な問い掛けが返ってきたことに私は安堵した。ほぼ考えられないことだったが、彼が力に訴えてきた場合――ルビーが動かざるを得なくなる。
「〈お願い。絶対に約束を破ったりしない。だから、今日だけはこのまま戻って〉」
この場で騒ぎになったとしても何も得られない。
姉を守ることにも繋がらない。そう分かってほしかった。
長い沈黙とともに向かい合う。しかし果たして彼は頷いた。
「〈絶対にだね〉」
それが彼にとって最大限の譲歩だったとしても――燃えるような目で、私のことを睨み付けて。