私をあれほど慕ってくれた彼はもうどこにもいない。私が失わせたのだから、言い訳をするつもりはないけれど。
座りましょうと言ったのにもユアンは警戒を隠そうとしない。でも私が悲しそうな表情を浮かべればその口元がわずかに引き結ばれ、彼は私と向かい合う形でソファに掛けてくれた。
次に立ち上がる時が、本当の終わりなのかもしれない。
「〈予測はついてるの? どこへ行ったか〉」
尋ねた私に、ユアンは握り込んでいた手を開く。
「〈姉さんをどこへ連れて行ったのかは分からない。姉さんにも聞いてない。でも、あの日と同じに見えた〉」
私は、黙って続きを待つ。
「〈貴族としてのアザリーさんじゃなかったってこと〉」
あの日。
路地裏の人身売買の場に現れ、彼を売ろうとした者たちが制圧された。あの場にいた私のことを、ユアンはどう思っていたのだろう?
「〈昔、助けられた時……。僕は命を救われたことに感謝していたし、証言も頼まれたようにした。『あの人』もアザリーさんも、モリアーティ伯爵のことも。悪い人だとはとても思えなかったから。それが恩返しに繋がるんだという理解をしていたから〉」
良い記憶だったのに――と。
「〈でも、あの人は人身売買の現場に突然乗り込んできて、暴力でそれを制圧したってことだ。僕は最初、何が起こったのかもわかっていなかった。あれは何だったの? あの時、僕は何を隠されていたの〉」
彼は私の方を真っ直ぐ見た。犯罪に染まらず生きてきた、正しい人間だけが持つことのできる視線だった。
彼が私を疑うということを知ったからこそ、持つことができるようになった疑問だ。
盲目的でなくなった。
それを人は、正常に戻ったと言うのかもしれない。
「〈アザリーさんたちは、犯罪者なの〉」
もう一度聞く。
姉さんに――何をした。
(……本当に、成長した)
私は彼の手元を見ながら、ほんの一瞬だけそんな現実逃避をした。あの日は幼い子供にしか見えなかった彼が、今やこれほど自分の意思を私に訴えられるようになるなんて。
あの日のことも、組織のことも詳しく話すつもりはない。彼には関係のないことだ。このタイミングで本題に入るのが得策だと判断して、私は目をわずかに伏せた。
「〈リディアの父親を殺してきたのよ〉」
ユアンの表情が、固まった。
目が見開かれ、呼吸さえ忘れたようだった。持ち上がった手がそのまま力を失って落ちる。
彼が事実を呑み込むまで待った。待ったとしても、言われることの予測はつく。
「〈どうしてそうなるんだ〉」
「〈彼女がそれを望んでいると知ったからよ〉」
「〈姉さんがそんなこと、望むはずない〉」
そう彼女が思わせてくれていたことを感謝すべきだ。思ったままを口にすることは、リディアが望まないだろうと思って抑えた。
「〈リディアを父親に会わせて、どうするか聞いた。彼女は自分の手で父親を殺した〉」
テーブルに彼の手が叩きつけられた。
激しい音を立てたが、それだけだ。ユアンがそれを聞くこともないし、私が動揺することもない。
彼が今ほど自分の聴覚障碍を恨んだことはないだろうと思うだけだ。
こんな話を聞かされて、相手を怒鳴りつけることもできないなんてどうかしている。
「〈嘘だ〉」
「〈嘘じゃない〉」
「〈姉さんは優しい人だ。あんな穏やかな人が。僕たちを裏切ってるっていうのか?〉」
彼女が家族を裏切ったことなんて一度もない。
むしろ愛の深さゆえに彼女は自分を犠牲にしていた。その犠牲は私なら取り払えるものだった。
それを伝えるためには、私が彼に冷たく事実を話すしかないのだ。
「〈彼女は善良な家族に相応しくあろうと自分を律していたの。自分を傷付けながら、殺意を必死に抑えようとしていた〉」
ユアンは当然、納得しない。
彼は衝撃にしばらく固まりその後も考え込んでいたが、やがて顔を上げる。
「〈……僕たちにはそれを言えなかったってこと? 会ったばかりのアザリーさんには言えたって?〉」
言えるわけがない。
自分を安心させようと、幸せに生きてもらおうと苦慮してくれる人間を前に――すでに捕まった加害者への殺意など、打ち明けられるわけがない。捕まってよかったと言うしかないに決まっている。
けれどもユアンにとっては、それは絶望的な真実となってしまうのだ。だから、彼に生じる疑問も仕方ない。
「〈アザリーさんが唆したの?〉」
「……」
「〈アザリーさんたちは、昔から『そういう力』を持っているんでしょう。だから姉さんを唆して、姉さんがそうしたいと言ったら――それを叶えることができたってことなの?〉」
答えない私に、ユアンはその手を動かし続けた。
何故唆した。
姉さんにそんな殺意があったとして、抑えられていた殺意にどうして目を向けた。
姉さんを殺人犯にした。
頼まれたのだとしても、どうしてその時止めてくれなかった。
どうしてそんなことに手を貸した!
(……わからない)
「正しい」人間たちは……。
彼らはたとえ殺したいほど憎い人間がいたとしても、それを抱えて生きていく。
腹の中の黒い感情を、法に触れるものだと抑え込む。
相手は法の裁きを受けたのだからと自分に言い聞かせる。自分が手を汚したら、自分が今これほど憎む相手と同じ種類の人間になってしまうと言い聞かせる。
これは相手のためではなく、自分自身のために持ち続けるべき理性なのだと抱え込む。
ユアンはそういう価値観を持っている。正しい価値観を持っている。
問題は――その価値観で、彼がそれほどまでに大切に思う人を救えるのかということだ。
愛する姉が叶わぬ願いにやがて心を壊すのを、あるべき姿と言い切れるのかということだ。
「〈なんてことをしてくれたんだ。姉さんは越えてはいけない一線を越えた。昔のアザリーさんは、犯罪者を決して許さない人だったのに〉」
〈昔のアザリーさんだったら、そんなことは絶対にしなかった〉。
分かり合うことはできない。私は静かに応える。
「〈じゃあ。私のことも、お姉さんのことも、告発するといいわ。犯罪者として〉」
それを見て、ユアンがまるで殴られたような顔をした。
彼の目から希望は完全に消えていた。澄んでいた瞳から色が抜け落ちてしまったかのようだった。
ひどく傷付けられた顔。その顔を見ているのも辛いけれど、冷たい表情を保っていないといけない。
諦めるように。
私のことを諦めるように。
地獄のように長い沈黙は、やがて弱々しい手話と共に終わった。
「〈告発は、しないよ〉」
ユアンが出した答えを、静かに見守る。
「〈姉さんとも、今まで通り一緒に暮らす。父さんの顔を曇らせる訳にはいかない……〉」
姉と同じように、ユアンが選んだのは家族の平穏な生活だった。私は悟られぬよう小さく息を吐く。
リディアの人生は――これで、守られる。
「〈アザリーさんは、僕と同じように姉さんのことを救ってくれたのかもしれない。知らなかったけれど、姉さんはずっと傷付いていたのかもしれない。そうだとしたら、僕に二人を告発するなんて真似はとてもできない〉」
「〈ユアン〉」
「〈でも、それだけだ。僕はアザリーさんのことを許せない。……許さない〉」
許さない。
今までの誰に言われた時よりも鋭く感じた。実際に言葉をぶつけているかのような鬼気迫る表情にも、頷き返すことしかできない。彼に最後の慈悲が、優しさと想像力がまだ残っていると分かるから余計に苦しいのかもしれない。
聞いたこともない彼の声が脳に響くようだ。
許さない。
絶対に、許さない。
「〈……さようなら、ユアン。あなたはこれからも正義の道を歩んでね。頑張って〉」
私は最後に、信じられないほど空虚な台詞しか吐くことができなかった。
話は終わったのだ。彼は私とリディアを告発しない。私がほんの少し彼の姉と出掛けた一日だけを切り取って、彼らの人生は何も変わらず続いていく。
「〈送っていくわ〉」
「〈やめてくれ〉」
ユアンは私を睨んだ。この慈悲を最後に一切の信頼関係が消え失せたのだ。帰り道が明らかに危険だと分かっていても、私の施しを受けることは――もはや彼にとって耐えがたい屈辱になってしまった。
「〈一人で帰れる。絶対に、ついてこないで〉」
「〈……分かったわ。気を付けて〉」
彼は振り向かない。
一歩一歩、ユアンが遠ざかる。
確かに自分の足で歩いていく。私とは、正反対の方向へ。
この書斎から、この屋敷から、離れていく。二度と戻ることはない。彼は私とのすべての過去を犠牲にしてリディアを守るだろう。
私は静寂の中立ち尽くしたが、彼が屋敷を出ただろう頃を見計らって呟く。
「彼を護衛して。見つからないように――必ず無事に帰らせて」
「はい」
ルビーの行動は迅速だった。彼女がユアンを追うため姿を消して、私は本当に一人になった。
(ユアン)
正義の道を歩んでほしい。
本心だ。心からそう思う。傷付かず、曲がらず、幸せになってほしい。
(ユアン……)
大切すぎて、もう痛みさえも感じない。
彼の中から私の記憶の全てを消したい。
そうしてあげることができたら、どんなにいいか。