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暁風 04

 組織を抜ける。

 一瞬何を言われたかわからなかった。ポーロックの様子がいつもと何も変わらないから余計に事態を呑み込むことができない。

「……嘘でしょう?」

「嘘であってほしい?」

「ええ……」

 彼の目は凪いだままだ。

 何も納得できないのに彼の決心がもう変わらないことだけが伝わってくる。自分の心臓が嫌な脈の打ち方をしているが、抑えることはできそうにない。

「組織は大きくなりすぎた」

 ポーロックは私を慰めるかのような口調で言った。何も言うことができない私に、彼はゆっくりと語る。

 あやすように。宥めるように。

「シャーロック・ホームズとかいう探偵も、なにか大きな犯罪組織が蠢いていることに気付いてる。確かに組織は多くの犯罪者を粛清したが、これを教授が完璧に統制の取れるものとして支配することは……少しずつ、困難になってきている」

 必要な犠牲も増えている。そう繰り返した彼を私は見上げた。視線すらも優しく受け止められる。

 彼がこんな目で私を見たことが、過去にあったか?

「必要な犠牲って……」

「今までは出来る限り救われてきた罪のない者たち。彼らを助ける余裕がない」

 余裕がない。

 彼がそんなことを言うのは、初めてだ。

「今回僕に下った命令はね、とある貴族を屋敷ごと焼くことだ。この貴族自体はどうしようもない犯罪者だが、屋敷には生まれたばかりの子供がいる。だけど――仕方ないね」

「え……」

「赤子ひとりが別のところに避難していたらおかしいだろう? だがその腐り切った屋敷には残念なことに、他に見逃してもいいような人間がいないんだ。教授はその子の生まれてきた環境自体を憂い、その子を必要な犠牲として数えた」

 お父様の立てた計画。ポーロックはそれに絶望したのか。

(でも)

 お父様は心のない人間ではない。その結論に達したのだって、私や彼では把握できないような事情があるのかもしれない。

 それでも彼に罪悪感を植え付けてしまうのなら力になりたかった。私は彼の目を見返す。

「……確かに、悲しいことだわ。二人でお父様と話しましょう? 何か違う方法があるかもしれない。その子を助けるための」

「お嬢さん」

 自分の肩に優しく手が置かれる。何故だかひどく拒絶されたような気になった。

「今回のことだけじゃないんだ。組織の動き方は確実に変わった。年月を経てね」

 悲しげな目を見て、ふと昔彼が言っていたことを思い出した。

 教授の側にいる。命令にも従う。でも本当は、別に犯罪をしたい訳じゃない。

「……言ってたものね」

「は? 何を?」

「本当は、犯罪をしたくはないって」

 ポーロックは少し考え、ふと笑った。覚えてたんだ、と相槌を打つ姿はただ普通の青年のようにしか見えない。

 普通の。

 普通に生きたかった、青年のようにしか……。

「ただ犯罪をしたいやつなんかいないよ」

「……」

「理由があってそうなるんだ。どうしようもない環境と絶望が」

 あの赤子も、一人で生き残ったって犯罪者になるのかもしれないよね。

 そんな思ってもいないようなことを諦めた風に言う彼を見ていたら泣きそうになった。泣かないけれど――泣かないけれど、深い悲しみが身体の奥からせり上がってくる。

 ポーロックも、理由があって組織に入った人間だ。

 時折見せる切ない表情。軽口に潜むことのあった悲哀。

 彼は組織の中で充分に活躍できる能力を持ちながら、ずっと自分の倫理観の限界と戦っていたのだ。戦いながら、折り合いをつけながら、私やお父様に従い続けてくれた。

(かつての彼を救ったのは、お父様だったから……)

 彼は人に本心を見せない。

 彼はいつでも笑って人を振り回し、好きなように振る舞っているように見えた。でもその間もずっと苦しかったのだろうか。

 ずっと助けを求めていたのだろうか?

「――でも、どうするの? 姿を消すつもり?」

「逃げたと思われれば追われるからね。屋敷を焼くとき、ガス管を破壊しておいて爆発を起こすよ――遺体さえも残らない、悲しい悲しい大事故だ。その時に僕は死ぬ」

「死……」

「ってことに、できるかい? お嬢さん」

 彼は悪戯っぽい目で私に問い掛けた。

 できるか。

「お父様に、秘密に」できるか。

 手が震えるのを感じた。俯く私の上から、柔らかい声が降ってくる。

 ごめん。

 アザリー。

 私は下を向いたまま尋ね返す。何故私にそんなことを打ち明けるのか。

 彼は答えなかった。やがて顔を上げてもそこに彼の姿はない。ルーシーの声が聞こえたのだ。

「お嬢様! どうされたんです、こんなところで」

「ルーシー……」

 安心した様子で彼女は私に駆け寄ってきた。お部屋にいらっしゃらないからと慌てる彼女の姿が、これは夢ではなく紛れもない現実であると教えてくれる。

「ごめんなさい。ちょっと庭に出てみたくなって」

「それならそうと仰ってください! まったく、驚きましたよ」

 ルーシーに叱られ、重ねて謝る。そんな自分を、上から見下ろしているような感覚。

 どうする。

(お父様に、隠し通せるか)

 どうしようもなく心が騒ぐ。シャーロック・ホームズ。組織の揺らぎ。

 正義のための組織であっても――公に出ていける存在ではないこと。呑み込んできた犠牲、呑み込ませてきた犠牲が私たちに問い掛けてくるもの。

 今まで見ないようにしてきた面に、向き合わなければならない……。

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