彼が組織を抜けるとなったら。
ポーロックと会えなくなるのはもちろん辛い。でもあの真剣な口調を受けて、引き留めるだとか責めるだとか――そんなことは出来なかった。
長く活動するうちに離れていく人間もいる。そう思って受け入れるしかないのかもしれない。
けれどもそれなら彼は黙って姿を消したらよかった。私にわざわざ真相を告げる理由など彼にはない。
これから抜けようという組織のトップの娘に伝えるなんて、あまりにもリスクが高すぎる。私にだってそんなことはわかる。
何故、会いに来てくれたのか。
何故私に、組織についての憂いを打ち明けてくれたのか……。
もちろん、お父様を裏切ることはできない。
でも、ポーロックが隠し通してほしいと言うようなことをわざわざお父様に報告することもまた、できない。
ポーロックほど組織に長く関わり多くの計画を実行してきた存在が抜けると言って、無事にそれが叶うものなのか。想像したくもない。
彼が死ぬことなんて。組織に追われるようなことなんて。
(考えたくもない)
私はそのうちにいっそ理不尽な怒りさえ覚えるようになった。お父様に隠し事をするというのは、私にとっては現実的なことではないのだ。彼だってそんなこと、承知のはずなのに。彼の逃亡の危険性を高めるだけなのに。
何がしたいのだろう。
どうしてあげたら、いいのだろう。
私はしばらく考えた結果、自分にできることはたった一つだけだと結論づけた。ポーロックが指示を受けたというお父様が手掛けている案件について知ろうとせず、ポーロックが組織を抜ける日まで何もせずにいることだ。
いつも通りでいること。
余計なことをする方が、彼の邪魔になるだろう。
彼は結局私に何も具体的なことを望まずに去った。恐らく、もう会いに来ることもないのだろう。
その日までに、私が出来ることはあるか?
「必要な犠牲」と考えられたという赤子のことは気になった。だけれども、その子を救おうとすることによってきっとお父様は私が何かを知っていると悟ってしまうだろう。
きっと――事情があると信じたい。
彼が指示を受けたというならそう遠い話ではないだろう。彼の望みを叶えるために沈黙しようと思った。
(ポーロックは、また私を試しているの? でも……)
私が何かを選び取るのを、深い闇の中から何かが見ている。そんな感覚はどうしても拭いきれなかった。
けれども――沈黙を守ろうとする私の元へ、数日もせずに一通の手紙が届いた。
お父様から。
タイミングが悪いにもほどがあるその報せを書斎で受け取り、私は戦慄した。
「…………」
「奥様ぁ? どうされました?」
ルビーの明るい声にも反応できない。ゆっくりと深呼吸をして、便箋をそっとデスクの上に置く。反応がないので私の顔を覗き込むルビーに、やっと微笑みかける。
「アダム様が、ロンドンに戻ってくるそうよ」
「えー! 本当ですか!」
ルビーは一瞬で満面の笑みを浮かべた。彼女を闇の中から引き上げて私と繋いだお父様のことを、ルビーは心から信頼しているのだ。その嬉しそうな笑顔には一片の曇りもないが、やがて小さく首を傾げる。
「あれ? でも、大学の先生でしたよねぇ?」
「その仕事は、退くことにしたんですって」
「へえー。疲れちゃったんですかね?」
――町で噂が立った。潮時のようなので、辞職してロンドンに戻る。
お父様はロンドンから離れた大学で教鞭を執る身だった。そのため昔からたまにしか会うことができず、淋しく思っていた時期もある。大学教授という職はもちろん心から数学を愛するお父様にとっての天職であり、そして犯罪組織を動かすにあたって作用する有効な隠れ蓑でもあったはずだ。
噂が立ったとは、どういうことだろう。
昔から完璧な姿しか見てこなかったので、予想外の内容に戸惑ってしまう。無邪気に喜んでいるルビーと自分との落差がはっきり自覚されるのだ。
「いつでも会えるようになりますね、奥様!」
「ええ……そうね」
手紙にはもちろんポーロックのことなど一切書いていなかった。私の気にし過ぎだ。手紙には、お義父様の屋敷に戻るということと――近く会って話がしたいとあるだけだった。何も、こんな時に……。
昔はお父様が帰ってくるというだけで心底嬉しかった。会える日を指折り数えて待った。
それが今はどうしたことだろう。
今の私が願うのは、私がお父様と対面するまでにポーロックの離脱、そして「必要な犠牲」が払われていることだ。
最低だ。
自分の内面の変化が悲しくてたまらない。何も知らなかった頃に戻りたい。
戻れないことなど、自分が一番よく知っているのに。