お父様からの再びの連絡は、思っていたよりずっと早かった。
すでに以前の住居を引き払い、お義父様の屋敷に身を寄せたという。久々だということもあるしそちらの屋敷を訪ねたい。そんな風に連絡が来たものを断れるわけもなく、私はその通りに準備をした。
ポーロックのことは、本当に誰にも話せていない。
ルビーのこともヴィクターのことも、深く信頼している。それでも彼の「秘密」のことは、私一人が抱えていなければいけないことだと思ったのだ。
巻き込みたくない。
巻き込んで、後でどんな不利益になるかわからない。
「アダム様!」
矢のように日々が過ぎ、お父様が私の屋敷へ訪れた。扉が開いた瞬間にルビーが飛び出していってくれたことに安堵さえ覚えながら、私は玄関ホールでお父様を迎えた。
「ルビーか。久しいな」
「はい! あたし、元気です! すっごく、すっごく幸せです!」
「そうか」
お父様は変わらずしっかりとした装いに身を包んでいた。ルビーの勢いを抱き留めてスマートに離し、その目が私に向く。
「アザリー」
「アダム様、お久し振りです。お会いしたかったです」
佇まいは上品だけれども、痩身が少し心配になるようになってきた。背中もわずかに曲がってきたような感じがするけれど、その目の深さも鋭さも健在だ。
「ヴィクターは不在だったな」
「ええ。仕事で……ただ、くれぐれもよろしくと言っていました」
「会おうと思えばいつでも会える。わたしの方こそ、驚かせてしまったな」
父としての温かい眼差しも、そのまま。
屋敷の使用人たちは当然その全員がお父様と旧知だ。彼らと言葉を交わすお父様は懐かしそうな表情を浮かべるので、私もこの時間が平和に終わってくれればと願わざるを得ない。
ただ、そんなわけがなかった。
お父様とは書斎で話すことにした。ルビーにも下がってもらい、二人で向き合うと部屋は静寂に満ちた。
私が普段計画を練る部屋だと聞いたからか、お父様がゆっくりと辺りを見回す。私も何を言えばいいかわからなかったが、ひとまず手紙のことを尋ねる。
「あの、アダム様。不躾ですけれど、いったい何があったのでしょう?」
「そうだな」
書棚に目をやった後、視線がこちらに向く。
「アザリー。我々の動きを探り、組織の全容に辿り着きかねない者がいる」
「……シャーロック・ホームズですか?」
お父様は頷く。
リディアを救った時もそうだった。ロンドン中の難解な犯罪を紐解いて回る正義の名探偵。
「以前より、懸念材料として挙げていらっしゃいましたよね」
「そうだ。奴はあれからも事あるごとに組織について疑い、実態を暴こうとしている。その都度妨害はしているが、非常に厄介な存在だ」
「……ええ」
お父様は比較的緩やかに流れる時間を利用して、彼との攻防について聞かせてくれた。彼が組織に気付いたのは、やはり組織と拡大に伴って――多くの犯罪の背後にその存在を感じ取ることとなったからだろうという。
シャーロック・ホームズ個人が行った捜査の影響か、お父様の務める大学近くの町でも組織についての噂が立つようになった。お父様はそれを良くない兆候とみとめ、今回の決断に至ったのだ。
お父様の話し方も、宿る上品さもそのままだ。ただ、そこに今までにはなかった危機感のようなものが見え隠れするようになっているのは否めない。
(お父様……)
「お前の働きは申し分ない。だが組織は月日と共に拡大し、以前とは重視すべき点も変わった。ついては、考えるべきことも出来てきたということだ」
「考えるべきこと、というのは」
「ポーロックが、そろそろ裏切るだろうと思っている」
平静を保つことができたと思う。
私はポーロックと最後に会った時から、ずっとそれについて考え続けた。もしお父様に会うことになってしまったらと、何度も想定した。だからこそ、私が自然に驚いてみせたのにお父様が違和感を覚えた様子もなかったのだ。
「……何か、あったのですか?」
「それこそ昔から懸念されていたことではあった」
お父様は、淡々と彼について語った。
「あれは最初から、組織そのものに心酔して加入したものではない。わたしが拾い、そこに組織で輝く才能を見出したものだ――だからあれが本来持つ倫理観は、組織と常に共にある訳ではないのだ」
倫理観。
限界は見えていた、とその唇が動く。
「組織が拡大すれば犠牲も増える。そこに理不尽を感じるのも理解出来ることだ。だがその抜けた一本の糸を、致命的なものとしてあの探偵の元へ漂着させる訳にはいかないから――そのタイミングは、こちらで図ることとしたのだ」
こちらで図る。その発言の意味について聞き、私は今度こそ息を呑む。
「次の依頼に、あれが呑み込めないだろう犠牲を割り当てた。そこできっと、ポーロックはわたしを捨てる」
「割り当てた」。
その単語に、一瞬頭の中が真っ白になった。ポーロックと交わした会話が蘇る。生まれたばかりの子供。
お父様でも上手く救えないほどの、それほどどうしようもない事情があるのだと思った。そう信じた。確かにそれだけの「事情」が、ここにある。
貴族側の事情じゃない。
ポーロックの台詞。
『教授の優先度の基準は、組織に綻びが生まれるかどうかだよ』
(彼のことを、裏切らせるため)
「そ……」
計画の概要を聞かされて、私は固まった。そこまでを含めて、必要な犠牲だとお父様は見ている。
この全てを見通す人が、そう決めている。
「まさかとは思うが、何か聞いているか」
すいと上がった顎。私は一度だけ首を横に振った。
「いいえ。彼とはルビーを通じて仕事をお願いしているだけで、最近は顔を合わせていなくて」
「そうか。それならいい」
「計画の実行はいつなのですか?」
声が震えない。これが組織の人間であるということか。
この「必要な犠牲」が――彼を組織から去らせる。
お父様が口にした日はあまりにも近かった。ひとつの日付さえ溢れ落ちていきそうな脳味噌を押さえつけたい衝動に駆られながら、なんとか尋ねる。
「彼を……粛正するのですか?」
お父様も、私と彼が親しくしていたことは知っている。許される範囲の疑問だろうと思ってぶつけたし、それについては否定の身振りが返された。
「あれは、去る時は黙って去るだろう。タイミングがこちらの思う通りであればいい。隠滅のためにも」
「……」
私はお父様に、なんと返事をしたのだったか。
あまりにも完璧すぎる計画に全身が冷えていくのを感じた。ポーロックが思っていた以上に、お父様は彼を見抜いていた。
あれほど自由に振る舞っていたはずのポーロックが、全てお父様の掌の上で生き続けていた。去り際さえ、彼を尊重するかのようで――実際は、彼にあれほどの苦悩と悲しみを強いる。
それでも私はお父様を裏切れない。
そこには確かな信念があると、組織を守るための厳しい判断があったと信じたい――私はついにポーロックの願い通り沈黙することには成功したが、お父様が帰った後でも心には陰鬱とした雲が掛かり続けていた。