誰に対しても隠し通そう。疲弊した頭でそれだけを決めた。
誰にも心配を掛けたくないし、困らせたくもなかったから。
でも、駄目だった。夜遅くになって帰宅したヴィクターに内心の絶望を気取られない訳がなかったのだ。
「アザリー。何がありましたか」
一瞬だった。
私は大丈夫と答えたがまるで誤魔化せなかった。お父様にさえ隠し通すことができたというのに、何故だろう。不思議に思ってもそれを想像する余力もなくて、素直に聞いてみることにした。
「どうして、いつも気付くの?」
「愛しているからでしょう」
「……」
逡巡さえもない。真顔でそんなことを言うのも、彼にとっては自明のことだからだ。私が微笑んでもヴィクターはまったく安心してくれない。何があったのかと再び尋ねてくる。
「ルビーから聞いたわ。あんまり質問しない方がいい時もあるって言ったって」
「時と場合によります。顔色が悪いですよ」
私は玄関ホールからリビングへ抵抗も空しく連行され、料理人たちに温かい紅茶と食事を用意してもらうことになった。食欲などまったくなかったが、ヴィクターからの食べろという圧に負けそうになってしまう。
倒れた方が面倒なことになりますと言われれば、納得するしかない。
スープの芳醇な香りにつられて手を伸ばすと、その温かさに少し落ち着いた。
「教授が来ていたのではなかったのですか?」
「そうなんだけど……」
スープを飲む動作でなんとなく誤魔化していると、彼は静かにこちらの様子を窺う。
「聞いてはいけないことですか」
何と答えればいいのだろう。
ポーロックのことは、ヴィクターはよく知らないままだ。けれどもこうなってしまった以上何も話さないというのも憚られる。
結局、抽象的な話をすることになった。
「……組織が拡大すると、考えなきゃいけないことが増えるんだなって。ヴィクターの銀行も?」
予想を外れた問いだったと思うけれども、彼は少し考えた後で頷く。
「そうですね。……私は銀行を興しこそしましたが、最近は自分の権力を優秀な部下たちに委譲しようとしているところなんです。それも銀行の規模が拡大しているからです」
彼が仕事の話をしてくれるのは珍しかった。どうして、と質問してみる。
「権力が集中していては、たとえば迷走した時に止まる術がないでしょう? 私一人がいつまでも最有力人物と見られているのは、組織としても良くないことですから」
「良くないこと?」
「ええ。私だって、いつまでも生きていられる訳ではない。私がいなくなってこの銀行は終わったと思われないように、未来へ続いていくために――優秀な人間をきちんと取り立て、離れないようにする必要があります」
優秀な人間が離れる。
ポーロックのことが思い出されて、私は俯きそうになった。
未来へ続いていくための、必要な犠牲。
「……お父様が間違っているかもと思ったら、私、どうすればいいのかしら」
「教授が?」
私は、少しだけ彼に事情を打ち明けた。組織の拡大と方針の変化によって組織に見切りをつける者がいるということ。
「組織が続いていくために犠牲になる人がいる。それは、仕方がないことなのかもしれないって……」
「全く、そんなことは思っていなさそうですね」
ヴィクターが苦笑した。まだ整理できていない自分の内心を見透かされているようだ。
「私、大人になれてないの。組織のことを最優先に考える人と、方針が変わったからついていけない人と、どちらのことも……悪いと思えない」
「どちらが悪いということはないと思いますよ。あなたが考え続けることには意味がある」
ヴィクターは優しい視線をこちらに向けた。
どちらも悪くない。
彼がそう言ってくれるだけで、なんだか呼吸がしやすくなった気がした。
「その抜けるという人物には、もう会えないのですか?」
「きっと。遠くへ逃げるんじゃないかって思う――お父様から、逃げるんだって」
どちらも大切なの。選べないの。
どうしようもなく子供のように繰り返す私に、彼はただ寄り添ってくれる。
何事も変わっていくものだと、私よりずっと大人であるこの人は知っているようだった。