計画が実行されたのは、お父様に聞いたその日付が切り替わろうかという時だった。
遠くからでも、音が届いたのだ。夜の静寂を引き裂くような鈍い轟音――爆発だ。
窓ガラスがわずかに震えた気がした。
開け放していたカーテン。何度も様子を窺った窓の外に、オレンジ色の光が見えた。ロンドン郊外。かなり遠いようだが、あそこに件の貴族の屋敷が建っていたのだろう。
(あれは……)
遠くからでも、窓に寄ればそれが炎だと分かる。火事なんてものではない大爆発。見ているうちにその炎がみるみる広がっていく。
『屋敷を焼くとき、ガス管を破壊しておいて爆発を起こすよ――遺体さえも残らない、悲しい悲しい大事故だ』
彼の言葉が頭の中で再生される。
あの屋敷で生活していた者はみんな、その命を失ってしまったのだろう。遠目ではよく分からないが、彼がそう言うのだから仕損じるはずがない。
屋敷を焼く予定だったが、「悲しい事故」で予定外の大爆発が起きた。そこでポーロックも命を落とした。
そういう計画だと、言っていた。
(上手く行った、ってこと)
救えたかもしれない命が失われたことを、そんな風に言いたくはない。それでもポーロックがお父様と面と向かって対立することなく組織を抜けられるなら、せめてそれを良かったと思うしかない。
区切りをつけて、進んでいかないといけない。私がお父様を裏切って組織を抜けることは有り得ないのだから、その分も。
彼は無事に逃げられたのだろうか。
お父様はこの爆発のことを知って、きっとポーロックの裏切りを悟るだろう。こんな何ひとつとして残りそうにない、助かりようもない爆発の跡を見たとしても。
彼が死んだのではなくて――組織を捨てて離れていったと分かるのだろう。
でも、それで終わり。
ポーロックは逃げおおせる。彼が組織をどこかに売ることは私としても想像しにくかった。
こんな去り方も彼らしい。彼はこの炎を挨拶代わりにして消えたのだ。最後に自分を救ってくれた人からの命令を守って、それでもこれからは彼自身の倫理観に従って生きていく。
――幸せになってほしい。
最近人にそんなことを思ってばかりだと思う。見送る立場が辛いことにも気付いたけれど、それをも呑み込んで生きていくのだ。私はカーテンを閉め、寝室に戻って休むことにした。
とはいえ、……眠れる訳もない。
ベッドに入ったはいいが、そこまでだ。すぐにそう悟った私は諦めて身体を起こした。ヘッドボードに背を預け、ランプを灯す。
数分してから、なんとなくカーテンも開けてみることにした。あの火事はどうなったのだろう。
この部屋の窓からは見えないけれども、つい窓の外を眺める。
何もかもを呑み込んでしまいそうな闇がそこにある。
待っていたってどうにもならない。
ポーロックが生き延びただろうことは唯一の救いだけれど、二度と会うことはできないだろう。それに、ポーロックを失って組織がどうなっていくのかにも不安がある。
彼は何年にもわたって私の人生に寄り添ってくれた。大切な存在だったと思う。この喪失感は、暫く消えてくれそうにない。
そんなことを考えて、気持ちが暗くなるばかりで。どれだけ時間が経っただろう?
私は自分の目を疑った。
深い闇。
その闇の中で――何かが動いたのだ。
(え……)
信じられなかった。夜にあてられて自分の目がおかしくなったのかと見紛うような視界の揺らめきに続いて、何者かが音もなく窓から入り込んできたのだ。
敵意がなさすぎて、反射的に動くこともできなかった。
そのシルエット。囁き声。
「アザリー」
彼は私の名前を呼んでおきながら、自分の口元で人差し指を立てた。
「間違ってもベネット君に殺されたくはない。叫んでくれるなよ」
その囁きは、不思議と明瞭な響きとなって耳に届く。初めて会った時にも感じたあの感覚が、紛れもなく目の前にいるのが彼だと伝えてくれる。
「ポーロック……」
ランプの薄い灯りがやっとのことで彼を照らした。生きている。無事でいる。彼の姿をようやくみとめた時、私はさっきまでつらつらと考えていたことの全てが吹き飛んでしまった。
だって。
だって、この屋敷には一度も来ようとしなかったのに。神経を使ってまで来たくはないと言っていたのに。どうして最後になって、優しい目をしてここに立つ。
ただ見つめ返すことしかできない私を見て、ポーロックがぎょっとしたように一歩引いた。
「泣かないでよ」
「だって」
子供か、と呆れたように言いながら彼は懐から一枚の紙片を取り出した。意味がわからない私の手を取って握らせてくる。目を落としたそこに並ぶ文字列は見慣れないものだった。どこかの住所のようだ。
「これを渡しに来たんだ」
「これは?」
「僕の隠れ家のうちのひとつ。……これは誰にも教えたらいけない。これは君との長く続いた縁に報いるための、最後の助力だ」
「助力って……」
馬鹿みたいに彼の言葉を繰り返すことしかできない私を、いつになく穏やかな目が見下ろした。
「ひとつ。たったひとつだけ、君の願いを叶えよう」
黙っていてくれたお礼に。
魔法使いだ、と彼は笑った。
「もし思い付いたら、そこに宛てて連絡を寄越すといい。君がそれを望むというなら、そのひとつに限って――僕はどんな非道なことであっても叶える。……約束するよ」
約束。
それは彼が選ぶにはあまりに幻想的な言葉だった。頼りない響きが、それでも私の掌の上に残る。彼がそんなものを残していくことが、かえって彼との長い別れを象徴しているように思える。何より彼が、無事にあの爆発を抜けてきた彼が悲しそうな顔をしていることが辛い。
「要らないなら、もちろんこれを教授……君の父親に渡してもいい。だがそれを受けて向かってくる奴の命は保証できないよ。僕は確かに組織に生かされた。感謝しているけれど、その代わりに僕は躊躇いと呼ばれるものを全て失ったから」
仲間殺しなんて、奪ってきた命に比べたら何とも思わない。
彼が必要以上に悪ぶった口調で語るのにも胸が苦しくなる。彼はお父様を裏切ったことが苦しいのだと、言葉とは裏腹に伝わってくる。あれほど読めなかった彼の気持ちが、今になってはこれほど明らかになっているなんて。
彼だって、進んで出ていきたくなんてないのかもしれない。
これほどまでに長い間、お父様に従った。組織の一員として生きた。それは事実なのだから。
私は彼の腕を掴んだ。ポーロックは驚いたようだが、抵抗しない。されるがままになってこちらを見ている。
最後だから。
最後だからと――その瞳はどこまでも静かだ。
「お父様は、あなたのことが大事だった」
呟いた言葉も、彼は黙って聞いた。
全てはお父様の掌の上だったかもしれないけれど、……それは予想がついていたというだけのことかもしれない。
だって大切じゃなかったら、色々と考えを巡らせたりしない。他の裏切り者についてポーロックに頼んでいたように、不穏分子として処分すればいいだけだ。
裏切ったことにする方法なんて、いくらでもあるはずなのだ。「拡大した組織」の力があれば。
何とも思っていない人のために計画を練って、舞台を用意したりしない。自分の死を偽装できるような事件を、わざわざその一人に任せたりしない。
粛正するつもりはないとも言っていた。お父様なりの情が確かにそこにあったと信じたい。
言葉が止まらなくなる私を、ポーロックはしばらく見ていた。やがて充分だと言うように、掴んでいた腕にそっと手が添えられる。
「ありがとう。アザリー」
「……」
揶揄いの色のない純粋な呼び掛けには、何と答えたらいいのかわからなくなる。
(彼がこれほど澄んだ瞳を持っていたことに、どうして今になって気付くのだろう)
――『秩序の申し子』。君の下で働けて、光栄だった。
それこそ幻のような言葉が耳に届いたのを最後として、彼は姿を消した。
組織の手の届くところに戻ることは、二度となかった。