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魂までは奪えない 02

 ポーロックが去ってからの数か月の間、私達の人生は平穏に過ぎた。

 秩序の申し子。

 ヴィクターもかつて私のことをそう評した。彼らが私に何を見ているのか考えながら、私は運ばれてくる情報に向き合った。それまで誰にも耳を傾けられなかった声を拾い上げ、司法が救うことのできない人々を救おうとした。

 ポーロックが組織の変化を憂いていたことは私の頭の片隅にも残り続け、私はより慎重な計画を立てることを意識するようになった。ヴィクターは私を気遣いながら、彼自身のビジネスについても着々とその規模を拡大させているようだった。

 組織の拡大。

 シャーロック・ホームズ。

(……大丈夫なのかしら……)

 私は一貫して、ラインハルト・ジェームズ・モリアーティの娘、ヴィクター・ベネットの妻として生きている。

 あの探偵に私がお父様の娘だと看破される可能性はないだろう。

 安心するようにとお父様に言われたりもしたけれど、私は最近そのことに昔のような不安を再び覚えるようになっていた。

 私が本当に幼かった頃。

 私には母はいない代わりに二人の父がいて、その二人ともが私に深い愛情を掛けてくれた。

 わたしの宝。

 そう呼ばれ、愛しているからこそ貴族の娘として育てると言われた。「ラインハルト様」の娘として生きていくことに強い抵抗がなかったのは、それが私のためと信じられるだけの充分な誠実さと愛を受け取っていたからだ。

 その時でさえ、ラインハルト様を父と慕いながらでさえ――私はアダム・ジェームズ・モリアーティの娘だと皆に言いたい気持ちを内心に抱えていた。

(貴族としての対面などより、お父様の娘だと胸を張っていられた方が嬉しい、って)

 確かに覚えている。お義父様を心から信頼する気持ちと、お父様を本当の父として愛する気持ちは決して相反しないのだ。

 貴族として生きるのは私にとってはお父様からの愛情を受け取るための行為のようなものだった。もちろんメリットも受けた恩恵も大きすぎて、とてもそんなことを言えるような立場ではなかったけれど……。

 今の私は、お父様とはほとんど顔を合わせていない。

 それぞれが同じ目的のために行動しているだけなら、それでも繋がっていると思える。ただし最近のお父様は、だんだんと「こちら」に近付きつつあるシャーロック・ホームズの妨害の方へ時間を割いていると聞く。

 私は、それには関わっていない。下手に関わり私の素性を相手に悟られる方がまずいという。それはもちろん理解できる理屈だけれど、ふとどうしようもない焦りのようなものが私に襲いかかってくる。

 お父様は、一人で戦っているのではないのか。

 私が力になれることは何もないのだろうか?

 娘として……。

 ポーロックが抜けても、お父様の腹心はまだ残っている。モランさんもその一人だし、組織自体が崩れ掛かっている訳ではない。そう聞いている。

 けれど――本当に、そうなのだろうか?

 それでも私は何故かお父様が、私を置いてどんどん遠ざかっていってしまうように感じられたのだ。

 そして、時間は静かに流れていった。


 十一月。

 十二月。

 一月――の、とある日。


 夜、帰ってきたヴィクターの様子になんとなく違和感を覚えた。具体的に表現するのは難しいけれど、明らかに何かがあったと分かる。

 彼は常に冷静な態度を崩さない人なので、これはとても珍しいことだった。

「ヴィクター。どうしたの?」

 見上げた彼の表情はなんだか驚いているようだった。どうして気付いたのですか、と尋ねられる。

 前に私がそう聞いた時に愛しているからと臆面もなく返されたことを思い出した。同じようにしようかと思ったのも一瞬で、言葉は喉の奥に逃げていく。彼のようにはできない。

 じゃあ、何て言う?

「……えっと」

 スマートな返しがまったく思い浮かばずに固まる私を見て、ヴィクターがふと笑った。つい咎めるような口調になってしまう。

「どうして笑うの」

「すみません。あまりに可愛らしいので」

 私の表情に怒りを見たか、ヴィクターはもう一度謝った。優しいけれどもその目がやっぱりいつもと違う。

 はぐらかされたのだろうかと思っているうちに、彼が呟くように言った。

「……こんなことでは、あなたと喧嘩もできない」

「喧嘩?」

 耳慣れない言葉に私は耳を疑った。私達が言い争いになったことなど一度もない。何かトラブルがあっても、彼が感情を乱すようなことはまずありえなかったからだ。

 それなのに彼の方からそんな言葉が出るなんて、いったい何が起きたというのだろう。

 私は事態の深刻さを感じ取って、ひとまず彼の話が何であったとしても彼に寄り添おうとした――けれど彼がお父様から秘密裏に連絡を受けたと聞いてしまっては、驚かずにはいられなかった。

「お父様から……」

 組織のこと?

 私の動揺を見て取り、かえって彼の方が落ち着いたらしかった。私を宥めるようにゆっくりと頷く。

「アザリー」

 迷っていたような違和感が、もう瞳から消えている。

「……驚かせてしまいましたね。もう大丈夫です。きちんと話をしましょう」

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