私達は書斎で話をすることにした。ルビーは内緒話なんてずるいと言いながらラウンドテーブルに二人分の紅茶を用意してくれた。
組織の人間として話を聞くから、ここがいいと思ったのだ。
彼は今やいつも通りの冷静さを取り戻しているけれど、私たちの間には緊張感のある空気が漂っている。
ヴィクターはルビーへの礼儀とばかりにカップに口をつけ、静かに置いた。
「私も直接連絡を受けた訳ではないんです。伝言を残していったのは組織の一員を名乗る男性でした」
私も教授が教鞭を執っていた時の教え子ですから、もはやあまり接触する訳にもいきません。
言葉にある切迫感。冷え冷えとした感覚が足元から上がってくる。
「なに……お父様は、なんて?」
「遠くへ逃げてほしい、と言われました」
逃げてほしい。
ヴィクターの言葉は突如飛躍したように聞こえてしまった。予想していた伝言とは大きく外れていたのだ。てっきり、シャーロック・ホームズにかかわる何かの報告かと予想していた。
……逃げてほしい?
このロンドンから?
「遠く? 遠くって、どこ」
「スイスのジュネーヴを考えています」
ぼやくような私の疑問には、すぐに具体的な地名が返ってきた。彼の表情がやや沈んで見えるのは、まるでこんな機会が来ることを知っていたかのようだ。疑問はもちろん表情に出ただろう。
彼は私の目をまっすぐに見た。
後ろめたいことなど何もないと、私を安心させるように。
「以前、銀行の規模が拡大してきたという話をしましたね。権力を分散させているところだとも」
「ええ……」
「あれはもちろん紛れもない真実ですが、教授に言われて準備をしていた部分もあるんです。特に銀行の拡大については。それが奏功し、今回スイスに支店を構える見込みとなりました」
スイス。確かに彼がいつだったか二人でいたとき、銀行業が急成長している国だと言っているのを聞いた気がする。イギリスの銀行が進出する先にもなっていると……。
あれはただの雑談ではなかったのだ。
淡々と紡がれる口調。彼の銀行が大きな発展をしたことは喜ばしいのに、お父様の指示によるという部分が気になって上手く反応できないでいる。
「それって……」
「当然、銀行の海外進出は最初から視野に入れていたことです。ただし保険として、私とあなたが社交界に何ら怪しまれず――生活の拠点を移すための隠れ蓑にとの見込みがありました。その時が来たのでしょう」
生活の拠点を移す。
何故。あの探偵に探られないため?
それほどの事態になる可能性をお父様は以前から想定していたのか、それか。
「それほどの事態」に、もうなっている……?
「だ……駄目よ」
言葉が口をついて出た。
「駄目。ヴィクター、それはできない」
「アザリー」
「絶対。絶対に、従えないわ」
彼に怒鳴るなんてことは、できない。
彼が私を傷付けようとしたことは今までに一度もない。彼は悪くない。その事実だけが私を踏みとどまらせていた。
こんな――こんなことがあるか。
お父様が私を遠ざけようとするなんて。自分の中にある激情は外に出ることは耐えていながら、私から冷静さを見る間に奪っていく。
とても黙っていられない。
気遣わしげな声が私を心から心配してくれていると分かっていても、止まれない。ヴィクターが私を守るために、私の人生のために、どれほどのことをしてくれていたかへの感謝さえ今は伝えることができないくらい。
「お父様は今も戦ってる。私が逃げるなんて――安全なところへ逃げるなんて。出来る訳ないじゃない」
「だが、あなたを守ろうとしてのことだ」
「だって。お父様は、私に」
一度、黙る。
致命的なことを言わないように。
彼を間違っても傷付けたくない。だけど、どうしたらいい?
私の言葉をすべて聞き届けようと待っているその目。私はゆっくりと深呼吸をした。それでも心臓の鼓動はまったく落ち着いてくれない。
言葉を選ぶことは結局できなかった。呟きはまったく力のないものとして零れる。
「私に、組織のみんなを見殺しにしろっていうの……」
私が逃げたって、何にもならない。私がただ助かるだけだ。
みんなは?
私に従ってくれていた者たちは、お父様は、どうなるというのだろう。
ヴィクターには答えられるはずもない問いだった。
「あの探偵にお父様が捕まったりするというなら、私も捕まる。そうでなきゃおかしいでしょう? だって……」
現実を受け入れられなくて縋るような言い方になったかもしれない。
彼はふたたび私の名を呼んだ。
アザリー。
静寂が、しばらく私達の間に横たわった。
「……犯した罪だけではなく」
そして、彼が語り出す。
「誰もが、自分のした選択の責任を取ることになるのです。私にとってそれはあなたの行く先を最後まで見届けるということ。そしてあなたにとっては――教授の信念を受け継ぐということなのかもしれません」
選択。
彼は私がしてきた犯罪を今になってもそう呼んでくれた。
「あなたが捕まり、司法の手に落ちて何になる。あなたがあの探偵に敗北しなかったという事実に、希望を見出す者がきっといます」
普段は理知的な色の濃い彼の目に、このとき熱が宿っている気がした。
浮かされてしまいそうな熱情が。
(ヴィクター)
「あなたは教授が大切に隠してきた宝だ。今になっても捜査の手が及ばない、教授の思想を受け継ぐ人間だ。あなたの救いたい相手を救えない者にみすみす捕えさせる訳にはいかない――確かに私が受け取ったのは教授の命令ですが、これは私の意思でもある。あなたを慕う者たちも同じだと信じます」
(……そうだった)
思い出した。
ヴィクターは、もちろん私のことを愛してくれている。けれどもそれと同じくらい大切なことを忘れていた。
彼は昔から、私と会う前からお父様の信念に共感を示した人だ。
自分の人生を生きながらも「モリアーティ教授」に協力し続ける、一人の人間だ。
「私の意思」。
ひたすらに私の言葉を聞き届けてそれでも紡がれる声。そこにある誠実さとどう向き合ったらいい。
目を逸らすことのできないような瞳を前にしたら、少し頭が冷えた。
「ごめんなさい、ヴィクター。子供みたいなことを言って……」
彼は静かに首を振った。たじろぐ私を支えるように、言葉は続く。
淡々と。
「時間があまりないようです。社交界で大きな噂にならないための自然な理由は作りました。……教授の意思に従うのが良いと私も思います。どうしますか?」
私は答えた。あなたと一緒なら。
彼は答えた。当然、どこまでも。