私は親しかった婦人たちへ宛てて手紙を書いた。
夫の銀行の海外進出のこと。私自身も体調の優れないこと。今後のことを考え、スイスへ生活の拠点を移すことにした――と。
嫌な噂にならない範囲で話を広めていってくれる常識的な人たちだ。
ストラフォード侯爵夫人をはじめとして、私の話は概ね自然に受け入れられた。ヴィクターを祝うのやら私を気遣うやら、優しくも配慮ある返事を読んでは心が温まり、複雑な気分にもなる。それに。
(……お父様……)
ヴィクターと話が出来たことで、心は決まっていた。
一度は決断したものの話が行ったり来たりし、躊躇い、組織の行く先を憂いてまた慌てる。
それらが落ち着くのに掛かった呆れるほどの長い時間には、すべてヴィクターが付き合ってくれた。
もう話を引っ繰り返すようなことはしない。
それでも私はお父様と会わずにロンドンを去ることだけは考えられなかった。
もちろんお父様は組織を守るために戦っている最中だと分かっている。お父様が敗北することなど考えられないし、また会える日が来るとも信じている。
でも、今、少しだけでも会いたい。
どんな方法を使ってもいい。私は準備を進めながら何度もお父様に接触しようとし、人を通じて伝言を送り続けた。だが、お父様からの返答はないままだ。
初めは焦ったけれど他に伝わってくる情報もない。お父様自身の危機というよりは、ただ避けられているらしい。
会ったら手放せなくなると思っているのでは。ヴィクターはそんな風に宥めてくれたが、さすがに納得できない。
ただしお父様がこちらからの接触を本気で断とうとしたら敵わない。お義父様の屋敷にいったん身を寄せたとは聞いたが、すでに住処を他に確保して移ってしまったらしい。
今は隠れ蓑として家庭教師をしていると聞いたが、その相手も知らされていない。お父様に関する情報を得るのが難しくなっている。
――あの時からだ。
ポーロックが去ることを知っていたと打ち明けた時から、お父様に会えていない。
(失望させてしまったのかしら)
あの時のお父様の態度は穏やかだった。ポーロックに対する怒りも、私に対する非難も見出せなかった。だけれどもあれは赦しではなく、諦めだったのだろうか? そんな不安が心に入り込んでくるようになった。
ともかくも、私は先にお義父様へ手紙を書いた。もちろん私の引っ越しのことはご存知だろうから挨拶をしようと思ったのだ。手紙にはお父様に会えないことと、それについて相談をしたいことも書き添えておいた。
「奥様。一緒に行きます」
ルビーが屋敷へ付いてきたがったので、それも認めた。
私がロンドンを去るという話をしたとき、一番泣いて拒否するのはこの子だと思っていた。どうやって説得しようかとさえ考えていたところだったのに、意外にも屋敷の中で一番理解を示してくれたのがルビーだったのだ。
奥様が捕まるのは絶対にだめです。
そんな風に、静かに呟いた。
「……ルビー、心配しないで。あなたはまだ幼い。お義父様の屋敷で暮らしていけるよう、お願いするから」
「奥様」
こんな時ばかり、あの子の目から無邪気な色が消える。
組織の一員としての強い意志がその目に宿る。
「あたし、自分の心配なんて、してないです。……えっと、心外です」
そんな言い方は実にたどたどしかった。ヴィクターが教えたのかな、などと場違いな想像をして――私は彼女の頭を撫でた。
大好きです。声には言いようもない悲しみの色が滲んでいたのに、そんな風に伝えてきてくれる。
(――この子のことを、置いていく……)
目の前で俯く身体は、あまりにも華奢だ。
私も大好き、と答える声が震えそうになった。