「アズ。よく来たね」
私が訪ねて行ったのはお義父様が戻る頃に合わせて、夜になった。
「お仕事の後に、申し訳ありません」
「早く帰りたくて仕方なかったよ」
冗談めかした言い方もなんだか懐かしく感じてしまう。ありがとうございますとなんとか返し、私達はまた向かい合うことになった。
お義父様の部屋。
ブラウンカラーのソファ。
ここが、いつも全ての始まりだった気がする。今自分にこの色がどんな風に見えているか、うまく言語化できない。
「思ったよりは、平気そうだね」
「ヴィクターにさんざん当たってしまいました。絶対、出ていきたくないって」
「そうなのか。ぜひ聞いてみたかったな」
私の冗談にもお義父様は笑ってくれた。この穏やかな表情を見るのがずっと好きだった。
アズ、と愛称で呼ばれるのも。
「しかしよく決断したじゃないか」
「組織が危ないというのに、ロンドンを離れるのは嫌なんです。本当は」
「……君はそういう子だよ」
普通は逃げたいだろうにね。お義父様の目はただ優しい。
「お義父様はどうされるのですか?」
「私はここに残るよ。あの探偵が、私が組織に加担していた事実にまで辿り着くことはまずあり得ない」
「そうですか……」
お義父様は主に貴族として、その地位や人脈などの側面から組織を支えてきた存在だ。組織の信念に共感し力を貸していたけれども、組織の中心人物と言い切れるような人ではない。お父様とはまた別の意味で、表に出るようなことはなかったはずだ。
直接犯罪者の断罪に関わったのは、アイラ様の時だけなのではないだろうか?
アイラ様を、事故に見せかけ殺害した時。
私のことを娘として迎えるために。
「なんて顔をしているんだい」
愛情に満ちた声を受け取った時にこそ、ひどい悲しみが押し寄せてきた。私が受け入れられたことは何よりの幸せだ。私を貴族の娘として育てようとしてくれた愛も疑いようがない。
それでも、考えてしまう。
「私、お義父様のことを、犯罪者にしてしまいましたか」
疑問を投げかけるような形になってしまったのは、甘えだった。
そんなことはないと言って欲しかったのだと思う。私と出会えてよかったと、力になれてよかったと、そう言ってもらおうとしたのだと思う。口に出しておいて、自分自身のことが心底嫌になるくらい醜い問いだった。
「何を言う」
お義父様は私の問いに不思議そうな顔をした。私は質問を取り消すために首を振ったけれど、意味がなかった。
「わが子の居場所を作るのは、親の役目だよ」
世界の常識だ。他の何にも替えられるようなことではない。
そう言い切る声は私を慮るようなものではなかった。ひとつの真実としてそう信じていると思わせてくれる、とても誠実な声だった。それは犯罪だとかそういった概念をすべて越えて私を認めた。
親。
わが子。
お義父様は私との関係性において、そんな言葉を使い続けてくれる。
きっと、これからもずっと。
「アズ。それはソフィアさん――君のお母さんにも、アダムにも言えることだよ。君自身が自分の人生を手にしたことについて、君は何ら後ろめたさを感じる必要はない。そんなことを考えるのはやめるんだ」
「……分かりました」
私を優しく窘めて、お義父様は私の言葉を待つことにしたらしかった。穏やかな静寂の中で、何を言えばいいか考える。
ロンドンを離れてしまったら、まず当分こちらには戻ってこられない。シャーロック・ホームズとのことがどうなるかわからないが、私がこの穏やかな瞳と長い別れを迎えることは間違いないのだろう。
私が、お義父様に言いたいこと。
お義父様に望むこと……。
「……ロンドンの社交界は、確かに恐ろしかったです。それでも――捨てたものではないと思えることもありました」
「そうか。大人になったね」
「お義父様。あなたは犯罪に手を染めたりしないでください。もう、二度と」
私を見守るようだった視線が、ふと揺らいだ。
「うん?」
「モランさんに、昔、戻れないと言われたんです。組織に入ったら、人を殺したら。でもお義父様は違います。あなたが罪を犯したのは、私にかかることだけ……もしそうなら、それが正しいことだったと信じていただけるなら」
真っ当に生きていてください。
誇り高き伯爵として、生きていてください。
(随分、勝手なことを言っている)
でも、私はここにいないお父様の気持ちが分かる。
お父様はすべて一人で背負うようなところがある。もし本当に組織が危ないなら、実の兄であるお義父様とも距離を取る。そしてそのまま引き離そうとするはずだ。
私のように。
自分ひとりが犯罪者のような顔をして……。
だから言わずにはいられなかった。きっとこれはお父様が本当は言いたくても、言えないでいることだ。
「ちょっと、私に対して都合が良すぎるのではないかな」
表情に浮かぶ苦笑も愛おしい。私は笑って答えた。
「娘ですもの」
私の言葉を聞いて、今度こそお義父様が笑った。
初めて見る。何にも、誰にも遠慮のない笑顔。取り繕うところのない素直な微笑み。
それを言われてしまってはね。
呟きの後にお義父様は立ち上がった。つられて立ち上がる私の手を、静かに掬い上げる。
「アズ」
「はい」
「誓おう。君をこれより手放してからは、一切の犯罪に手を染めず、流される血を見ることもない。心を許せる相手と出会えるかどうかは分からないが――ただ一人の貴族として、誇り高く生きていこう」
「……はい。お義父様」
また、受け入れられた。
最後まで甘えてばかり。それなのにこの人はまったく揺らがずに、ずっと愛してくれていた。
私はたまらず頭を下げたけれども、その上をお義父様の声が飛んでいった。
「アズとこんな親子の感動的な交流をするのが、私だけでいいのかな」
「え?」
声はなんだか意地悪めいた揶揄いのような響きを持っていた。思わず顔を上げてお義父様を見ると、あの素直な微笑みはもうそこにない。
にやにやと――私の背後を窺っているようだ。
(え?)
「……本当に人が悪いですね、兄さん」
反対側から降ってきた声。
扉は、開いていた。振り返った私はつい叫んでしまいそうになる。その人はとてもばつの悪そうな顔をして、そこに立っていた。
「アダム様」