お義父様は非難を受けてもまるで動じず、ゆったりとソファに掛け直した。
「私がどんな強引な手を使ってお前をここに呼び出したとしても、まさか迷惑だったとは言えまいよ」
余裕に満ちた言葉に反論は聞こえてこない。普段から読みにくいその表情が、困惑していることだけが分かる。
兄の横暴に呆れ、諦め、それでもここへ来た。そんな弟としての姿も珍しい。
アダム・ジェームズ・モリアーティ。私の父。
「……アダム様。私、私……何度も連絡を」
「会うつもりはなかった」
目が合わない。お父様は実に気まずそうに言って顔を逸らす。久々に見るその姿はひとまず変わりないけれど、相当疲弊しているはずだ。
それなのに……。
「お義父様が、連絡を?」
「ああ。アズから音信不通だと聞いて、父親として如何なものかと憂慮せずにはいられなくてね」
私の疑問に答える実にわざとらしい口調が耳に届いてか、お父様の溜息が聞こえた。この場にそぐわないながら昔に聞いた話を思い出す。
お父様が私を娘として預ける時に、自分が父親だと明かさない道を選ぼうとしたこと。
その不義理を、お義父様が絶対に許さなかったこと。
『父として振る舞え、父なのだから』
(……案外、覚えているものなんだわ)
この人だって、兄の頼みには逆らえないこともある。
微笑みが溢れて不審そうな目を向けられてしまった。でもこの微笑みは隠すべきものなんだろうか?
私はお父様に駆け寄った。落ち着きのない娘の仕草を咎めようとしながら、その人は言葉を飲み込んでしまう。
「……アザリー」
「はい」
にこにこしている私を前にして、お父様は緩んだ空気を扱いかねたようだった。言葉が続かない。
でも――大丈夫。気まずくなんてない。
会いたくなかったという顔はされていないのだから。
少ししてから私は静かに尋ねた。
「組織のことは、公になってしまうのでしょうか」
しばらくの間物言いたげにした後、その目がわずかに頷くように動く。
沈黙。
それから私を捉えて、そっと語り出す。
「あの探偵は、組織の小さな躓きに勝機を見出してしまった。奴の満足するまで証拠が集められたら、それが審判の時となるのかもしれない」
審判。
その言い方がなにかとても不幸な最後を思わせるようだった。どういうことですかと尋ねても、お父様は詳細を語ろうとしない。
その様子を見ていたら、重ねて問うのはやめておこうという気が起きてくる。
(……お父様)
お父様は敗北を受け入れたりしない。たとえ組織の崩壊が組織の拡大が孕んでいたリスクの発露だったとしても、それが間違っていたなんて――思っていない。
信念を失っていない。
お父様が信じるものは他の誰にも奪えないと、光を失わない目が訴える。
私もそれは同じだった。私達でなければ救えないものはあまりにも多かった。真に絶望していた者を救ったと確かに言えることも数え切れないほどある。その事実は司法によって否定されるものではないと、固く信じている。
失われていくものがあるとしてもお父様に憔悴した様子がない。それが証左だ。
決断してからは、私は「逃げる」とは言わないようにしていた。
あの探偵の手を、司法の手を遠く離れて――お父様の理想を決して奪わせない。ヴィクターが言ってくれた言葉を思い出し、お父様にも約束として伝えたくなった。
「私は、司法のもとには裁かれません。あの探偵に対して敗北を認めることもありません。絶対に」
お父様は私が絶望し悲しむと思っていたのだろうか。詳しい状況を問い詰めると予想していたのだろうか?
数秒だけ、呆然としたようなその表情。
「娘の成長は早いものだね、アダム」
兄の声に何かを言い返そうとして、諦めた。私に向き直ったその時、もう会えないのではないかという嫌な予感が脳をよぎる。
その不安ごと抱え込んでしまうほど穏やかな瞳がそこにあった。
「アザリー」
「……何でしょう」
「お前はわたしの希望だ。そしてソフィアの希望だ――何にも替えられない宝だ。わたしがお前を愛しているのはもちろんだが、わたしの愛した女性のためにも……どうか最後まで、わたしたちの娘であってくれ」
信じたものを曲げないでくれ。
「誇り高く」、あってくれ。
犯罪組織の長としてではない、父親としての願い。
わたしの宝。幼い頃から何度も言われた言葉。
反射的に一度頷き、噛み締めるようにまた頷く。
誇り高く。
お父様もそうあるつもりなのだろう。あの探偵だってきっと正しいのだろうけれど、私たちのこの瞬間を否定することは誰にもできない。
愛している。
(家族になったのを後悔したことは、一度もない)
私と二人の父は、こうして別れることになった。