私の屋敷で一緒にいてくれたみんなについて。
ルビーは無事にお義父様の屋敷で引き取られることになった。ルーシーがまだまだ現役なので、きっと彼女の面倒を見てくれるだろう。
お義父様が誓いのとおり犯罪には関わらないのならルビーにもきっとそう促してくれる。今はまだ自分の力に誇りを持っている彼女が、いつか平和だけを愛せるようになってくれたらいいと思う。
他の使用人たちはみな、彼らが持つ力の積極的な行使は望んでいない。彼らについては、私が信頼できると判断した婦人たちのところへ紹介することにした――彼らは直接的に事件に関わっていたものではないし、捜査の手から逃れることができるだろう。
この屋敷とも、お別れだ。
どうしても必要な家財道具については業者に引き渡して、私はヴィクターと二人スイスに渡ることとした。
ロンドンから電車で出立しドーバー海峡を船で渡る。そこからは鉄道だ。日を跨ぐ長い移動になる。
組織の人間がシャーロック・ホームズの動向を探り、彼の行動範囲と決して被らない日が選定され――その上で、ロンドンを出るまではモランさんが付き添ってくれることになった。
お父様の側近。右腕。お父様が最後に彼を派遣してくれた事実……。
「アザリー」
「お久し振りです。来てくださってありがとうございます、モランさん」
この人に会うといつも背筋が伸びる。彼は初めて訪れた屋敷の玄関ホールを見回し、私へ視線を戻す。
「荷物は無事に送れたのか?」
「はい。あとは、チャリングクロス駅からドーバー行きの列車に乗ります」
「予定通りだな」
モランさんは変わらない大きな体躯に黒のロングコートを纏っていた。静かな貫禄も鋭い眼差しも、変わらない。すぐにこちらへ姿を見せたヴィクターには薄い微笑みを見せる。
「モラン大佐。本日はお越しいただいて、申し訳ありません」
「ああ。お前らが無事にロンドンを発てば教授も安心されるだろう。しっかり同行させてもらう」
モランさんにも、明らかな憔悴の色はなかった。
いつも通りの態度。それが私たちのためなのか、彼自身の信念によるものなのかは計りかねた。ただモランさんが、今の状況にあってもお父様の指令を第一に置いていることは明らかだ。
最後まで近くで寄り添ってくれる人が、お父様にもいる。そのことに安堵する。
下準備は完璧に済んでいたので、私たちの移動は滞りなく進んだ。モランさんが護衛として周囲の様子を探っていてくれることに大きな安心感を覚えたし、なんとなく昔の記憶が蘇りもした。
私がまだ子供だった時。最初に「組織の力」を見た時……。
トラブルもなく列車に乗り込み、今回も一等車両。隣同士のボックス席が二つ取ってあるのを確認し、モランさんはそのうち一つに入ろうとした。
何もないと思うが、気を抜くな。そう言って。
一等車両にあっても、彼はずっとこちらに意識を向けているのだろう。命令通りに気配を殺し、別れるその時まで有事に備えてくれるつもりに違いなかった。寛ぐことなど、何があってもあり得ない……。
そう思ったら、ついそのコートの袖を掴んでいた。
「なんだ?」
本気で不審そうなリアクションをされて言葉に詰まる。
「……。えっと……」
「大佐。チャリングクロスまでは、アザリーと一緒にいていただけませんか」
見かねたヴィクターがさらりと言ってくれたので私は安堵したが、モランさんの目はますます不審さを強めた。
「おかしいだろ。なんでそうなる」
「私は彼女の意思を尊重したいのですよ。大佐と同じです」
それ以降のモランさんの不満げな声には取り合わず、ヴィクターはボックス席へ姿を消してしまう。走り続ける列車の中で、やがてモランさんは深い溜息を吐いた。
席に並んで掛けても不機嫌な様子が伝わってくる。というより、なんだか拗ねているかのようだ。私はしばらく様子を窺った後で、窓の外へ視線をやったままの彼に声を掛けた。
「モランさん」
「これじゃラインハルトに二つボックス席を都合させた意味がないだろ」
「意味は……その、あると思います。お話したかったので」
「話って?」
じろりとこちらを見られても、まるで怖くはない。この人は気まずく思っているだけだ。
お父様と同じ。
私がロンドンを去るしかない事態を、苦々しく思っているだけ。
「私、最初に出会えた組織の人がモランさんで良かったです」
何を言うか迷ってか、返答はなかった。聞いてくれているものと信じて続けるしかない。
「あの時、モランさんの行動を通して……組織に正義を見たと思います。私が組織の力と関わった最初の出来事でした。それからもずっと、正しいことをしたいという信念が私の中にありました」
モランさんのお陰です。
ありがとうございます。
しばらく待ってみたけれど、何も返ってこない。流れる景色を目で追っているらしいその表情が読み取れない。
また少し間を空けて、私は先を続けた。
「私、……秩序の申し子、って言われたんです。ヴィクターにも、ポーロックにも」
「……」
「組織に入りたいと思っても、戦う術が欲しいと思っても、力を持たない人の助けになりたいという思いがずっと変わらずに強かった。それはずっと、モランさんが何度も注意してくれたからだと思います」
自分の行動の責任を取ることになる。
本当に必要なことなのか。
「戻れない」。
そう、いつも本気で問い掛け、諭してくれる人がいたから曲がらなかった。今はそう信じられる。
私はただの犯罪者ではない存在として、自分を律することができた。
「あなたのお陰なんです」
気に病まないでほしい。お義父様が私を気遣ってくれたように。
正義を望む幼い子に力を貸し、望みを叶えてやったことを――後悔しないでほしい。
「伯爵家に生まれた一人娘として、何も知らない幸せな人生を送る。そんな姿を何度も想像した」
モランさんの呟きがふと聞こえた。彼が一瞬だけ、こちらを見る。
「だが――教授の娘としての人生の方が、幸せなんだな」
「ええ。もちろん」
明るく頷いた私の笑顔を真っ直ぐ見てくれたかは分からないが、モランさんは最後に短く言った。
それなら、それでいい。
「ありがとうございました、モランさん」
無事に列車はチャリングクロス駅に到着した。モランさんは軽く息を吐き、私達二人に向き合う。
あまり時間はないけれど、このときにはしっかりと目が合った。彼は微笑んでいた。
(モランさん……)
私の頭にそっと大きな手が乗り、そして離れる。
「じゃあな」
別れの言葉はあっさりとしていた。
多くの人で賑わう駅。その人混みにモランさんが静かに紛れていく。
あまりに大きな感情と自分を切り離すように。捨てられない感情をそれごと置いていくように、振り返ることはない。
ヴィクターが、震えそうになる私の手を静かに取った。