私とヴィクターは、無事にジュネーヴへ到着した。
移住にあたって購入した屋敷は、元々英国人が使用していたものというだけあってなんとなく慣れ親しんだ感じがあった。
二人だけで来たので、使用人も一から雇わなければならない。言葉の壁が一番の問題だと思っていたので、出した募集に英語を扱える女性がすぐに来てくれたのは僥倖だった。
(ジュネーヴには、霧がない……)
屋敷はレマン湖の湖畔に建っていた。抜けるような青空に山の景色。少し散歩すれば森に入ることもできた。
ロンドンにいた時とは違って、大自然がすぐ近くに感じられるような環境。気温としてはロンドンにいた時より明らかに下がったけれど、それもなんだか心地よいような気がした。
目にする風景が曇ることもない。
街全体もなんだか開放的な空気があり、自然の格式ばった世界から離れたような感覚が確かにあった。
ヴィクターはここで本格的に支店を開くこともあって、引っ越しも早々に忙しく飛び回っている――早く地盤を固めてしまいたいらしい。
私は彼がすでに習得しているフランス語の扱いを引き続き勉強しながら、屋敷の中を整えていった。
組織との関係は、ほんのわずかにしか残されていない。
組織の動向や周辺情報を私のところまで伝えてくれる組織の協力者たち。間違っても捕まることのない民間人である彼らからの便りを、私は複雑な気持ちで待った。
報告するようなことなど何もないままでいてほしい。
危機は去った。もう何も問題はない。そんなお父様からの連絡であってほしい。
そんな希望的な観測は、ついに叶うことはなかった。
ついにあの探偵シャーロック・ホームズとお父様が直接接触したという報せを受けた。
あの探偵は組織を告発するに足りる証拠を収集しきり、あとは待つだけの状況となってしまった。その探偵を追うため、お父様も配下とともにロンドンを発ったという。
――それからのことは、彼らにも把握しきることはできなかったのだろう。私はあの二人までもがロンドンを出たという情報に接し、この人目を避けるように立つ屋敷の中で祈り続けた。
一八九一年。
五月四日。
あまりに皮肉なことに、私の移住先であるスイス。
その、マイリンゲン――ライヘンバッハの滝で、「犯罪王」、ジェームズ・モリアーティはその命を失った。
五月六日のジュールナル・ド・ジュネーヴ。
五月七日のロイター通信。
そこで、有名な名探偵と犯罪王が共に姿を消したという事実が報じられた。あまり詳細な情報は記載されなかったけれども、二人は闘争の果てに滝壺へ呑み込まれていったのではないかとされていた。
かの巨大な滝において、生存はまず考えられないとも。
『ライヘンバッハの滝。それは絶え間なく唸るような水音が響き、全てを呑み込む奈落である。この時期は雪解けによってさらに増水し、飛沫はまるで煙のように辺り一帯を覆う。高さはどれほどのものかと見ても、水面を探すことさえ難しいだろう』……。
お父様が最後に立った場所。
絶望的な記述には、お父様の亡骸さえもきっと発見されることはないのだろうと思わされた。
そして、あの探偵も。
(シャーロック・ホームズも死んだ)
記事を持つ手は震えなかった。
自分に何かできなかったのかと考え――そして、無理だったと分かった。
続いて、組織の人間からの情報も届けられた。それも完全ではなかったけれど、お父様はロンドンから離れるシャーロック・ホームズに追走し、追跡の果てにライヘンバッハの滝で対峙した。そしてそのまま、あの滝の深淵深くへ消えた……。
シャーロック・ホームズがロンドンを離れたのは、すべての証拠を警察に引き渡す用意ができ、そこにもはや自分の助力は必要ないとしたからだという。
どこかで、分かっていたことなのかもしれない。
お父様はあの探偵もろとも全てを葬り去ろうとした。
その信念が、去った私に宛てた心配で濁らなかったことが――今は、よかったとさえ思える。
お父様は最後の瞬間まであの探偵を見ていた。スイスまでの旅路をずっと追い続けたのなら、あの探偵が娘である私の情報を掴んでいないか、私が司法の手に落ちてはいないかと憂う必要はなかったはずだ。
最後まで、信念のもとにあった。
信念の交わることのない男の影に追い付き、向き合うことが叶った。
正義の名探偵だけが帰還し、その人生を全否定されることは終ぞなかった。
(……最後まで、お父様らしい)
あの瀑布に落ちた瞬間のことなど、考えたくない。どれだけ冷たく苦しかっただろうと思うとそれ以上何も想像することができない。
救うことはできなかった。それでもあの探偵は最後まで私の元には辿り着かなかった。
組織の意思は、――まだ、ここにある。
私は静かに父を弔った。
滝の音はここに届かない。ただ静寂だけが部屋に広がった。