「姫様、姿勢を正してくださいませ」
柔らかくも毅然とした声が部屋に響く。俺は不機嫌そうに腕を組み、ため息をついた。
「……もう十分背筋は伸ばしてる」
「いえ、まだ足りません。王族の歩き方というものは、まるで風にそよぐ一輪の花のようにしなやかで優雅でなくてはなりませんわ」
目の前でにこやかに微笑むのは、俺の教育係を任されたという女性――クラリス。彼女は鋭い青い瞳を持ち、金色の髪を高く結い上げた、まさに"完璧な淑女"といった雰囲気の女性だった。
「そんな歩き方、剣の役にも立たねぇだろ……」
「姫様!」
ぴしゃりとクラリスの声が響く。俺は思わず背筋を伸ばしたが、彼女はすぐに微笑みに戻った。
「お忘れですか? 姫様はもう剣士ではございません。王族として、この国の未来を担う存在でございます」
「それが気に入らねぇんだよ……」
ぼやくように言った俺の言葉を無視し、クラリスは優雅に一歩を踏み出した。
「ご覧ください、姫様。これが、王女の歩き方です」
まるで舞うように滑らかな動きだった。音も立てず、風に溶け込むような足運び。見とれてしまいそうになるが――俺には無理だ。
「さあ、姫様もどうぞ」
「……やるしかねぇのか?」
「ええ、もちろん」
諦めたようにため息をつき、俺はぎこちなく足を踏み出した。
「違います!」
「……は?」
「まず、背筋を伸ばして。そして、足は膝を伸ばしたまま、つま先から静かに地面に触れます。そう、まるで湖の上を滑るように」
「そんなの無理だろ!」
「できます。何度も繰り返せば、姫様の身体も覚えますよ」
どうしても納得がいかなかったが、しぶしぶもう一度歩いてみる。しかし、もともと剣士としての歩き方に慣れているせいか、どうしても動きが荒くなる。
「違います! 姫様、もっと優雅に!」
「うるせぇな……」
俺は顔をしかめながらも、何度も繰り返し歩く。ドレスの裾がふわりと揺れ、視界の隅で銀髪が舞う。そのたびに、自分が「王女」になってしまった現実を突きつけられるようで、嫌でも気が滅入った。
「……はぁ、これでいいか?」
「まだまだですが、先ほどよりはマシになりましたね」
クラリスが満足げに微笑む。それが、妙に悔しかった。
「では、次は礼儀作法を学びます」
「まだやるのかよ……」
「ええ、姫様が正真正銘の王女となるその日まで、終わりはございません」
俺は頭を抱えたくなった。
「さて、貴族の方々に対しては、きちんとした挨拶をしなければなりません」
「挨拶くらいできる」
「では、試しに私にご挨拶を」
俺は少しだけ考え、手を適当に振った。
「おう、よろしくな」
「……」
クラリスが微笑みを崩さずに俺を見つめる。その沈黙が逆に怖い。
「……姫様、そのような挨拶を王族が使っていると思われますか?」
「いや、でも簡単でいいだろ?」
「いいえ、ダメです」
ぴしゃりと否定され、俺は不機嫌そうに腕を組んだ。
「では、正しいご挨拶をお見せします」
クラリスは優雅に腰を落とし、完璧な淑女の礼を見せた。
「『ご機嫌麗しゅうございます。お会いできて光栄です』」
「……」
「さあ、姫様もどうぞ」
「無理」
即答した俺を見て、クラリスは困ったように微笑んだ。
「姫様、それではこの先の社交界で大変なご苦労をなさることになりますよ」
「社交界なんか行くつもりねぇよ」
「いずれは必要になります」
どうしても納得がいかないが、ここで反抗しても意味がない。俺は小さくため息をつき、しぶしぶ口を開いた。
「……ご機嫌……麗しゅう?」
「そうです! その調子です!」
「くそ……」
俺は悔しさを滲ませながら、仕方なくクラリスの指導に従った。
「では、最後に言葉遣いを学びましょう」
「まだあるのかよ……」
「ええ、当然です。姫様はもう剣士ではなく、王女なのですから」
「何度も言うが、俺は姫じゃねぇ……!」
そう叫ぶ俺を見て、クラリスはふっと微笑んだ。
「そうおっしゃるうちは、まだまだお勉強が足りませんわね」
俺は頭を抱えた。
どうして俺は、こんな目に遭っているんだ……?