夜の帳が静かに王都を包み込んでいた。
城のバルコニーに立ち、俺は無言で夜空を見上げる。
星々は輝いているのに、まるで手が届かないほど遠く感じる。
魔王軍との戦いが終わり、王国は復興へと向かっている。
だけど、俺の心は今、戦場で剣を振るっていた頃よりもはるかに混乱していた。
政略結婚の話が進み、王族としての役割を押し付けられそうになっている。
剣を握り続けたい自分と、王国を守るために「王」となることを求められる自分――
その狭間で、俺は答えを見つけられずにいた。
そして――明日、蒼真が旅立つ。
「……何で、こんなに胸が重いんだ?」
ぼんやりと呟く。
今までずっと一緒にいた。
俺たちは幼馴染で、剣を交えたライバルで、いつも隣にいた。
だけど、これからは違う。
蒼真は勇者として異国へと旅立ち、俺は王女として王国に残る。
それが当然の流れのはずなのに――
「……」
心臓が、妙に痛む。
その時――
「よぉ」
背後から、馴染みのある声がした。
俺はゆっくり振り向く。
「……蒼真」
彼は、いつものように腕を組み、バルコニーの入口に立っていた。
「やっぱりここにいたな」
「……何で分かった?」
「お前、考え事する時は決まってここにいるだろ」
蒼真はそう言って、俺の隣に並ぶ。
「夜風が気持ちいいな」
「……そうだな」
静かな時間が流れる。
俺たちは並んで夜空を見上げた。
いつもなら、蒼真が軽口を叩いて場を和ませるのに、今日は妙に静かだった。
しばらくの沈黙の後――
「……明日、行くんだな」
俺はようやく、その言葉を口にした。
「ああ」
蒼真は小さく頷く。
「異国の地で、勇者としての使命を果たせってさ」
「そっか……」
俺は視線を落とす。
分かっていたことなのに、言葉にした途端、胸が締め付けられる。
「お前がどこにいても、俺は変わらねぇよ」
蒼真が、ふっと微笑んだ。
「お前が王女でも、剣士でも、何でもいい。お前はお前だ」
「……」
俺は、初めて"何かを失う"という感情を自覚した。
今までずっと隣にいた存在が、遠くへ行ってしまう。
それが、こんなにも苦しいことだとは思わなかった。
「なぁ、レイシア」
蒼真が、俺をまっすぐに見つめる。
「もし、お前が望むなら……俺は、すべて捨ててここに残る」
「……!」
俺の心臓が跳ねる。
「勇者の使命も、何もかも……俺には関係ねぇ」
蒼真の声は、今までにないほど真剣だった。
「お前が一人で戦うのが辛いなら、俺はお前のそばにいる」
「……っ」
俺の手が、震える。
「だから――言えよ」
蒼真は、俺の肩に手を置く。
「"行くな"って、お前が言うなら……俺は、行かない」
その言葉を聞いた瞬間、涙が零れそうになった。
でも――
「……バカ」
俺は、静かに首を振った。
「お前は勇者だ。行けよ」
蒼真の手が、ゆっくりと離れる。
俺は涙をこらえながら、微笑んだ。
「俺は、ここで戦う。だから、お前もお前の道を行け」
「……」
蒼真は、しばらく俺を見つめていた。
そして、深く息を吐くと――
「……そっか」
小さく笑った。
「やっぱり、お前はお前だな」
蒼真は、俺の額を軽く小突く。
「頑固で、真っ直ぐで、手がかかる」
「お前に言われたくねぇよ」
「ハハ……そうだな」
蒼真は、静かにバルコニーを後にする。
去り際――
「……バカ」
それだけ呟いて、蒼真は消えていった。
俺は、一人、夜空を見上げる。
星々は相変わらず美しく輝いている。
だけど、今夜の星は、いつもより遠くに感じた。
――"何かを失う"ということは、こんなにも苦しいものなのか?
涙は流さなかった。
でも、胸の奥で、何かが痛んでいた。
俺は、剣を握る。
戦うことを選んだのは、俺自身だ。
それなら――
"喪失"すらも、背負って進むしかない。
静かに、夜の風が吹き抜けた。