「言霊の継承者……ですって?」
アンナはグランの囁きを繰り返した。その言葉は遠い昔の御伽噺のようで現実感がなかった。しかし、グランの真剣な眼差しと彼の温かい手の感触が、冗談ではないことを告げていた。
隣ではリーフが息を飲んで見守っている。彼の知的なエメラルドグリーンの瞳には、驚きと困惑、そして抑えきれない興奮が浮かんでいた。
「グランさん、それは……本気でおっしゃっているのですか?」
「詳しい話は場所を変えよう。ここじゃ人目につきすぎる。立ち話で済む内容でもないわい」
グランはアンナの手を引き、図書室奥の使われていない閲覧室へと二人を導いた。埃っぽい空気の中に古い紙の匂いが満ちた、アンナにとって落ち着く空間だった。
「グランさん、一体どういうことなんですの? 私が……『継承者』だなんて……」
アンナは心臓が早鐘を打ちながら尋ねた。
グランは重々しく頷き、壁の古いタペストリーを指差した。色褪せてはいたが、中央に七角形のギルド本部が描かれ、周囲を七つの異なる種族のシンボルが取り囲んでいた。
「七賢人の時代、このギルド『虹の架け橋』は今とは全く異なる意味を持っていた」
グランは吟遊詩人のように語り始めた。
「単なる調停機関ではない。各種族が持つ『言葉の力』を集め、調和させ、世界の均衡を維持するための聖域だった。その中心にいたのが、七賢人じゃ」
「言葉の力……」
アンナはミストの村で『言葉の色が消える』現象を思い出した。そして自分が時折感じる、文字の輝きや言葉が直接心に響く不思議な感覚も。
「そうだ。各種族には固有の『言葉の理解方法』と『力』がある。人間は音で真意を聴き分け、エルフは形で本質を見抜き、我らドワーフは質感で記憶に触れる。霧人族は色彩で感情を伝え、
グランの言葉はアンナにとって衝撃的だった。自分が感じるあの不思議な感覚。それは『言葉の力』と関係があるのだろうか。人間とエルフの血を引く自分は……?
「そして稀に、全ての『言葉の力』を束ね、調和を導ける者が現れる。全種族の言葉を理解し、心に触れる特別な存在。それが『言霊の継承者』だ」
グランはアンナの目を真っ直ぐに見つめた。
「お前さんが拾った古書は、継承者の覚醒を促す賢人たちの導き。『規約第0条』の羊皮紙こそ、継承者が扱うべき最重要の『言葉』であり、世界の調和を取り戻す最後の希望なのだ」
アンナは言葉を失った。自分がそんな大それた存在だなんて信じられない。おっとりした規則解釈が得意なだけの受付嬢が、世界の調和を導く? そんな途方もない話があるだろうか。
(私にできるわけがないわ……少し文字が光って見えたり、頭痛がするだけなのに……)
しかし、羊皮紙の熱と古書の感触、そしてグランの揺るぎない眼差しが、彼の言葉に奇妙な説得力を与えていた。
「信じられないのは無理もないよ、アンナさん」
リーフが木漏れ日のように穏やかな声で言った。
「でも事実として、あなたが第0条の羊皮紙に触れた時、確かに七色の光が見えた。ミストさんの話を聞いた時、その光はより強くなった。偶然ではないと僕は思うんだ」
アンナはリーフの真摯な光を湛えた瞳を見た。嘘やからかいの色はどこにもない。
「私にも少しだけ分かるんだ」 リーフは尖った耳に触れた。
「ハーフエルフだから、人間とエルフ両方の『響き』と『形』を敏感に感じ取れる。だからアンナさんの特別な何かと、私の心が通じ合うのかも。あなたの見る世界は、きっと私たちの想像よりずっと豊かで複雑なんだろうね」
その言葉はアンナの心に温かく染み込んだ。人間の母とエルフの父を持つ彼女もまた、リーフと同じように、種族の狭間で生きる彼の言葉だからこそ、素直に受け止められたのかもしれない。孤独ではなかったのだと。
「では、私は……何をすればいいんですの?」
アンナの声はまだ震えていたが、小さな決意の光が灯り始めていた。
「まずは『最初の鍵』の意味を理解し、その力を受け入れることだ。見なさい、お前さんの足元を」
グランは静かにアンナの足元を指差した。アンナが訝しげに視線を落とすと、先ほど図書室で拾い上げた謎の古書の傍らに、いつの間にか七色に輝く小さな竪琴が一つ、落ちているではないか。それはまるで、古書がアンナを試すように、あるいは導くように、そっとそこに置かれたかのようだった。
「いつの間に……?」
アンナは戸惑いながらもその鍵を拾い上げた。触れると温かく、微かに震えているよう。まるで生きているかのように。
「おそらく七賢人が遺した『言葉の力』を解放するための七つの鍵の一つだろう」
グランは厳粛に言った。
「その形状から、人間族の賢人ヴィクター・レギウスが管理していたものだ。彼は七賢人の中で最も『言葉の力』の解明に執心していた」
アンナはギルド大広間の七賢人の肖像画を思い出した。人間族の賢人ヴィクターだけが威圧的で冷たい目をしていた。そして手元には小さな黒い本が描かれていた。
「ヴィクター・レギウスの書斎跡がギルドの古い区画に残っているはず」
グランは続けた。
「そこに行けば何か分かるかもしれん。だが気をつけろ。彼の遺したものは必ずしも善なるものばかりとは限らん」
三人は人目を忍んでギルドの旧区画へ向かった。そこは新ギルドマスター・レオンの方針で閉鎖された忘れ去られた場所だった。埃っぽい薄暗い廊下の先に、ヴィクター・レギウスの名が刻まれた錆びたプレートのある重々しい扉があった。過去の栄光とその裏に潜む闇を象徴するかのようだ。
アンナが、例の小さな竪琴を扉にかざすと、竪琴からまばゆい七色の光が放たれた。その光が扉の錠前に触れた瞬間、カチリと澄んだ音が響き、重々しい錠が開いた。まるで長い間主を待っていたかのように。
扉の向こうは時が止まったかのようなヴィクターの書斎だった。中央に大きな執務机、壁一面に膨大な書物。机上には黒い革装丁の本があった。肖像画で見たあの本だ。その本からはアンナにだけ感じられる冷たい圧力が放たれていた。
アンナが本に手を伸ばそうとした瞬間。
「――そこまでだ。不法侵入者どもめ」
冷徹な声と共に、入口に上級調停官マーカスが現れた。彼の鋭い瞳はアンナたちを射抜き、手には抜き身の剣があった。
「ここは関係者以外立ち入り禁止のはずだ。アンナ君、いったい何をしている? ギルドの機密情報を盗み出そうというのか?」
アンナは息を飲んだ。マーカスに見つかってしまった。彼の剣は本気で彼らを斬り捨てるつもりなのか。
その瞬間、アンナが手にしていた小さな竪琴が強く輝き、マーカスの背後の壁が蜃気楼のように揺らめいて光を放った。それは明らかに人工的でない不思議な現象だった。
(あそこは……隠し通路? なぜ今……?)
アンナはマーカスの厳しい視線を受け止めながら咄嗟に判断した。今はこの場を切り抜けるしかない。
「なにも……古い資料を探していただけですわ、マーカス様。ギルドの歴史に興味がありましたので」
彼女は努めて落ち着いた声で答えた。しかしその手は胸元で小さな竪琴を強く握りしめていた。鍵は熱く脈打ち、ここから逃げろと、あの光の先へ進めと、彼女に告げているようだった。