マーカスの鋭い視線が三人を射抜く。ヴィクター・レギウスの書斎に息詰まる緊張感が漂う。アンナは、とっさに服の背中側に滑り込ませた小さな竪琴の熱を感じながら必死に平静を装った。竪琴は彼女の肌を焼くほど熱い。
(隠し通路……でもどうやってマーカス様の目を掻い潜るの? あの剣は本気だわ……!)
「資料探し、だと?」マーカスは感情のない低い声で言ったが、アンナには奥に潜む冷たい怒りが感じられた。「閉鎖された旧区画で、それも七賢人の書斎でか? 受付嬢の君が、何の資料を探しているというのだ?」
グランが前に出ようとするのをアンナはそっと制した。下手に抵抗すれば事態が悪化するだけだ。
「はい、マーカス様。ギルドの歴史、特に創設期の理念に興味を持っておりまして。グランさんに案内していただいたのです。ご迷惑でしたら、すぐに退室いたします」
アンナは凛とした声で答えた。マーカスの表情が微かに動いたように見えた。
「……ふむ」マーカスはアンナを値踏みするように見つめた後、視線を逸らした。
「この区画は私の管轄だ。無断立ち入りは感心しない。今回は見逃すが、今後は必ず許可を取るように。アンナ君、君は好奇心が旺盛すぎる。その首が胴と繋がっているうちに、程々にしておくことだ」
意外なほどあっさりとした、しかし含みのある物言いに、三人は顔を見合わせた。マーカスは部屋を一瞥すると踵を返して出て行った。規則正しい足音が遠ざかっていく。
「助かった……のか? それとも何か裏があるのか……?」リーフは安堵しつつも警戒を解かない。
「分からん」グランは厳しい表情のままだ。
「マーカスは切れ者だ。我々の目的に気づいているかもしれん。あるいは奴自身も何かを探っておるのかも。油断は禁物じゃ」
アンナはマーカスの最後の視線を思い出していた。単なる咎めではなく、何かを試すような、期待するような複雑な色を帯びていた。「好奇心が旺盛すぎる」という言葉も、ただの忠告だったのだろうか。
その夜、アンナは例の小さな竪琴を自室の机で見つめていた。触れると温かく、まるで心臓のように光が脈打つ。その光はアンナに何かを語りかけているようだ。
「この小さな竪琴が……人間族の『聴く力』の鍵……。マーカス様も、人間族……」
アンナが呟いた瞬間、竪琴は強く輝き、頭の中に様々な言葉や音が流れ込んできた。ギルドの規則の条文、遠くの話し声、風の音、床下のネズミの音、そして幾重にも重なる不思議な旋律。
「うっ……あたまが……痛い……!」
強烈な頭痛と共にアンナは机に突っ伏した。情報過多で脳がパンクしそうだ。竪琴の力が聴覚をこじ開け、世界中の音が選別なく流れ込んできた。全ての音の洪水に飲み込まれる感覚だった。
(これが……『聴く力』の鍵の本当の力なの? この竪琴が持つ力が……こんなに苦しいなんて……)
しばらくして頭痛が和らぐと、周囲の音が鮮明に、多層的に聞こえるようになっていた。隣人の寝息、通りの靴音、そしてギルドから聞こえる規則の条文がぶつかり合う不協和音。まるでギルド自体が悲鳴を上げているようだった。
翌日。受付に立つアンナは疲れた顔をしていたが、瞳には新たな決意と不安が宿っていた。昨夜の体験は彼女に新たな力と同時に、その恐ろしさを教えた。
「アンナさん、大丈夫? マーカス様に呼び出されたって聞いたけど、顔色が優れないみたい……」セリアが心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫ですわ。少し資料整理で夜更かししただけです」アンナは明るく微笑んだ。
その時、霧人族のミストが再び訪れた。彼の霧は以前よりさらに色が薄れ、ほぼ灰色になっていた。その姿はアンナの胸を締め付けた。
「アンナ様……村の状況がさらに悪化しています。色彩契約が次々と失効し、村の秩序がもう保てそうにありません……」ミストの声は絶望に満ちていた。
アンナは彼の言葉の奥の悲痛な叫びと、心の霧から発せられる「助けて」という無言の色彩を、以前よりはっきりと感じ取った。
「ミストさん、正式な調停は却下されましたが、私、非公式に調査します。お力になれることがあるかもしれません」アンナはきっぱりと言った。
「本当ですか、アンナ様!?」ミストの灰色の霧がほんの少し明るくなった。
ちょうどその時、マーカスが通りかかった。彼は足を止め、二人に冷ややかな視線を送った。
「規則違反は許さんぞ、受付嬢。ギルドの秩序を乱す行為は厳罰に処せられる。君のお人好しが命取りにならなければいいが」
その言葉は厳格だったが、アンナはその奥にほんの僅かなためらいを感じた。そして、金色の光の糸が彼の言葉の周りに揺らめいているのも見えた。
(マーカス様の言葉……前はもっと冷たい『黒い糸』のように感じたのに……今は色が違う? この金色の糸は……?)
アンナは首を傾げた。自分の感覚が何かを捉え始めている。マーカスは本当に敵なのだろうか。
午後、アンナは古文書室でグランと相談していた。鍵の力、ミストの村、そしてマーカスの態度について。
「鍵の力は少しずつ分かってきました。でもこの力で私に何ができるのか……」
「それが『規則共鳴』という能力の始まりじゃ」グランは羊皮紙から顔を上げずに言った。
「七賢人のうち、人間族のヴィクターだけが完全に使いこなした特殊な力。お前さんはその継承者かもしれん。その力が完全に目覚めれば、ギルドの歪みも世界の不協和音も正しく『調律』できるやもしれん」
アンナがグランの見ている古いギルドの設計図に目を落とした時、突然文字が浮かび上がり複雑な模様を描き始めた。音楽が形になったかのようだった。
「きゃっ!」
「どうした! また何か見えたのか!?」
「規則が……文字が……糸のように見えるんです! 金色の糸と黒い糸が複雑に絡み合ってギルド全体を覆っているみたいに……!」
グランは息を飲んだ。アンナの瞳が金色と黒色の光を交互に映していた。神秘的で同時に恐ろしい光景だった。
その時、扉が開きマーカスが入ってきた。彼の瞳はアンナの異変を捉え、細められた。
「最近、許可なく古文書室に頻繁に出入りしているようだな。一体何を探っている?」
マーカスの声は抑揚がなかったが、無視できない圧力を持っていた。
アンナは『規則の糸の網』の幻視とマーカスの詰問で混乱した。金色の糸は温かく、黒い糸は冷たく、彼女の感覚を刺激する。
「古文書の整理を、グランさんと一緒に……それだけですわ……」
「嘘をつくな」マーカスの言葉がアンナの心を刺した。その言葉は紛れもなく黒い糸を纏っていた。
「何を見つけた? 君は一体何者だ? ただの受付嬢ではないことだけは確かだな」
アンナにはマーカスの言葉が「黒い糸」として見えた。しかしその奥に揺らめく金色の光も感じられた。暗雲の切れ間から差す一筋の光のようだった。
(この人の言葉……嘘で満ちている……でもその奥に何か隠された真実が……?)
「あなたの言葉……嘘で満ちています。でも……その奥には何か別のものも感じますわ……」
マーカスの表情が初めて明確に変わった。驚きと少しの焦りが浮かんだ。完璧な仮面が少しだけ剥がれたようだった。
「なるほど、君か……『継承者』は。ようやく尻尾を掴んだ。いや、私が見つけるのを待っていたのか?」
マーカスは有無を言わせぬ口調で言った。もはや詰問ではなく、確認するような響きだった。
「明日、閉館後、私の執務室へ来なさい。話がある。二人きりでだ。拒否は許さん」
アンナが持つ小さな竪琴がマーカスの言葉に呼応するように激しく震えた。恐怖からか、期待からか。運命の歯車が大きな音を立てて回り始めたようだった。