翌日の閉館後、アンナは重い足取りでマーカスの執務室へ向かった。心臓が早鐘を打ち、昨日の『継承者』という言葉と「二人きりでだ。拒否は許さん」という命令が耳に残っていた。
(一体、何を話すつもりなのかしら……もし危険だと判断されたら、私はどうなるの……?)
ノックに応じた「入れ」という声には、昨日よりも強い圧力が感じられた。
マーカスの執務室は完璧に整頓され、夜の帳が下り始め、ランプの灯りが壁に長い影を落としていた。
「来たか、アンナ君」マーカスはデスクの奥で腕を組み、鋭い目で彼女を見据えていた。
「単刀直入に聞こう」マーカスは静かに切り出した。
「君のその『力』……いつから自覚していた? そして、どこまで理解している?」
「力、ですか……?」アンナは首を傾げたが、マーカスの視線は誤魔化しを許さなかった。
「私は、ただの受付嬢ですわ。特別な力など……」
「規則が糸のように見える、と言ったな。そして、私の言葉に嘘を感じ取った。それは、ただの受付嬢にできることではない」
アンナは観念した。この人の前で嘘は通用しないと悟ったのだ。
「……いつからか、はっきりとは申し上げられません。最近、特に強く感じるようになりました。文字が輝いて見えたり、規則がおしゃべりを始めたりするのです。そして時々、人の言葉の裏側にある本当の気持ちが見えることも……」
「やはりそうか」マーカスは小さく頷いた。「私の父も晩年、似たようなことを口にしていた。『規則には魂が宿る』と。そして、その声を聞き、姿を見ることができる者がいる、と」
「お父様……失踪された前代の記録保管官様……」
「そうだ」マーカスの声に痛みが滲んだ。
「七年前に姿を消した。父はギルドの規則が歪んでいることに気づき、その原因を調査していた。そして『規約第0条』の存在と、その力に辿り着いたらしい。だが、その矢先に……」
「私は敵ではない、アンナ君」マーカスは静かに言った。「むしろ、君のような存在が現れるのを待っていたのかもしれない。父が追い求めていた『真実』への唯一の希望として。父は、必ず『継承者』が現れると信じていたからな」
「待っていた……私を……? でも、なぜ……」
「そうだ。私もこのギルドの『歪み』には気づいている。父の遺志を継ぎ、密かに調査を続けてきた」
マーカスは窓辺に歩み寄り、月明かりが彼の横顔を照らした。
「君の力は危険だ。上層部、特にレオン筆頭調停官に知られれば、君は排除されるだろう。彼はギルドの『純粋性』と『絶対的秩序』を何よりも重んじている。だが、その力は正しく使えば、このギルドを、世界を救う鍵になるかもしれない」
アンナは混乱した。昨日まで自分を厳しく監視していた人物が、今、協力者になると示唆している。
彼女には、マーカスの言葉から『黒い糸』は見えなかった。しかし、完全な『金色の糸』とも言い切れない、様々な色が混じり合った深い色合いを感じ取っていた。
※※※
数日後、街外れの花蜜族経営の小さなカフェの個室に、アンナ、グラン、リーフ、そしてミストが集まっていた。マーカスからの呼び出しだった。
「マーカス様を信用しても大丈夫なのでしょうか?」
リーフがアンナだけに聞こえるよう囁いた。
「彼はギルドの上層部。私たちを泳がせて、まとめて処分するつもりかもしれません」
「彼の父は、わしのかつての友人じゃった」グランが口を開いた。
「確かにマーカスは掴みどころのない男じゃが、根は真っ直ぐだと信じたい。それに、今の我々には彼の力が必要じゃ。レオンに対抗するにはな」
「私もマーカス様の言葉に嘘は感じませんでした。ただ、何か大きなものを背負っているような気がします。きっと、私たちと同じように何かを変えたいのでしょう」
ミストが周囲の霧を淡い黄金色に揺らめかせた。
「アンナ様の言葉、とても美しい黄金色に見えます。きっと、信じても大丈夫ですわ」
やがて変装したマーカスが入室し、すぐに本題に入った。
「レオン筆頭調停官の動きが活発化している。近々『最終規則改正』と称して、ギルドの規約を大幅に変更するつもりだ。そうなれば、人間以外の種族の『言葉の力』は完全に封じ込められる。そしてギルドは彼の手中に落ちる」
一同に緊張が走った。
「それを阻止するには『規約第0条』の真の力と、ヴィクター・レギウスが仕掛けた『罠』の全貌を明らかにするしかない」
マーカスはアンナを見つめた。「アンナ君、君の『規則共鳴』の能力が頼りだ。君にしかできないことだ」
「私に……できるでしょうか」アンナの声は自信なさげだった。
「一人では無理だろう。だが、我々がいる」マーカスは全員を見渡した。
「それぞれの知識と能力を結集させれば、道は開けるはずだ。私は父の遺志を継ぎ、そして君を信じる」
秘密の協力体制が結ばれた瞬間だった。アンナは仲間たちの顔を見て、小さく頷いた。
※※※
早速、アンナとグランはギルドの最下層にある古文書庫で調査を始めた。アンナの記憶力とグランの知識が連携し、調査は驚くほど早く進んだ。
数日後、アンナはある分厚い革綴じの記録書に奇妙な記述を発見した。
「大災害後、言語法則大イナル混乱ヲ来タシ、新タナル規約ノ制定、急務トナル……セカイノ調和、再構築ノタメ……」
「大災害? この記録は公式の歴史書には一切ありませんわよね?」
グランは眉をひそめた。
「わしも聞いたことがない。まるで歴史から抹消されたかのようじゃな」
さらにページをめくると、マーカスの父の筆跡に似た一枚のメモが挟まっていた。
「第0条解説書、失われた断片……『七つの鍵』が揃いし時、真の言葉は……その力を解き放つ……ヴィクターの呪縛を断ち切るために……」
「第0条解説書……! これですわ! きっとここに秘密が!」アンナは興奮した。
しかし、メモはそこで途切れていた。肝心の『真の言葉』については何も書かれていなかった。
その時、マーカスから緊急連絡があった。ギルド裏庭の東屋に来てほしいと。
アンナが駆けつけると、マーカスは厳しい表情で待っていた。
「どうやら我々の動きがレオンに気づかれたらしい。君の周辺にも監視の目が光っている。細心の注意を払え。奴は目的のためなら手段を選ばん」
「そんな……では、もう……」
「だが、悪い話ばかりではない」マーカスは一枚の羊皮紙を取り出した。
「父の資料に、これがあった。『七賢人の間には対立があった。人間族のヴィクターと他の賢人たちの間で』と。父はその対立の真相を探っていたのだ」
「何についての対立だったのですか?」
「『言葉の力』の本質についてだ」マーカスは静かに答えた。
「ヴィクターは人間族の言語理解法こそが至高であり、他の種族の『言葉の力』を劣ったものとして排除し、統一しようとした。それが今の『完璧な規則』の歪みの始まりであり、父が命を懸けて止めようとしたことだ」
「つまり……ギルドの規則そのものが、他種族の力を弱めるための罠?」
「その通りだ。そして、その罠はもうすぐ完成する。三日後の『最終規則改正』が仕上げとなるだろう」
その瞬間、アンナが持っていた『規約第0条』の羊皮紙と、アンナが持つ小さな竪琴が、まばゆい七色の光を放ち始めた。その光は周囲の闇を払い、希望の道を照らし出すかのようだった。
アンナの頭の中に、クリアな声が響いた。
「――第二の鍵、現れる。古きエルフの森にて、星影が道を指し示すだろう――」
アンナの視界に、ギルド本部の北東方向が一瞬エメラルドグリーンに輝いた。そこには新たな希望と未知なる試練が待っていた。