エルフの森から『虹見の丘』に戻ったアンナたちは、息つく暇もなくマーカスと合流した。以前と同じ花蜜族経営のカフェの奥まった個室。甘い花の香りが漂う店内とは対照的に、マーカスの表情は数日前よりも険しく、部屋の空気は張り詰めていた。
「無事だったか。エルフの森での収穫は? リーフ、故郷は変わりなかったかね?」
マーカスは低い声で尋ねた。
アンナは懐から『星影の水晶レンズ』を取り出し、テーブルに置いた。
「これがエルフ族の『見る力』の鍵です。リーフさんの助けがなければ、手に入れることはできませんでした」
グランは満足げに頷いた。
「うちの小娘も、少しは人を見る目が養われたようじゃな」
そのぶっきらぼうな言葉には、確かな信頼が込められていた。
マーカスはレンズを手に取り観察した。
「見事だ。これで二つの鍵が揃った。だが、時間は残されていない。事態は予想以上に早く進んでいる」
彼は一枚の羊皮紙をテーブルに広げた。それはギルドの内部通達の写しだった。
「レオン筆頭調停官が、三日後に『最終規則改正』のための緊急上級調停官会議を招集した。議題は『ギルド規約の最適化と、それに伴う不要条項の削除』……間違いなく、『第0条』と『言葉の力』を完全に封じ込めるためのものだ。そして、その会議で彼はギルドマスターへの就任も宣言するつもりらしい」
「三日後ですって! それに、ギルドマスターに……?」
アンナは息を飲んだ。残りの五つの鍵をそれまでに見つけるのは不可能に近い。
「全てを見つける必要はないかもしれんぞ」
グランが穏やかな声で言った。
「鍵同士が互いを感じ取り、力を高め合うのなら、いくつかの強力な鍵が揃えば、道が開けるやもしれん」
「その通りだ」マーカスは頷いた。
「次の鍵について、父の資料から手がかりを見つけた。花蜜族の長老、ネクタル師が持つ『
「だが、何ですの?」
「ネクタル長老は、ギルドに極度の不信感を抱いている。特にレオンが進める『効率化』という名の画一化政策には反対している。我々がギルドの者と知れば、門前払いされる可能性が高い」
「花蜜族のネクタル長老は非常に賢明ですが、とても気難しい方です」リーフが言った。
「特に最近のギルドの方針には強い不信感を抱いているはず。簡単には会ってくださらないでしょう」
「私が会います」アンナはきっぱりと言った。
「ミストさんの村のこともあります。花蜜族の方々も『言葉の力』の衰えを感じ、苦しんでいるはず。私が真意を伝えなければ。ギルドの受付嬢としてではなく、一人の『言葉の力を信じる者』として」
花蜜族の居住区は、ギルド本部からほど近い、色とりどりの花々が咲き乱れる美しい地区だった。しかしネクタル長老の館は不気味なほど静まり返っていた。甘いはずの花の香りも弱々しく、生気を失っているように感じられた。
館の奥に通されたアンナは、痩身の老いた花蜜族、ネクタル長老と対面した。長老の周囲の空気は砂糖菓子のように甘いが、その甘さの奥に深い苦悩と人を試すような鋭さが隠されていた。
「『虹の架け橋』ギルドの受付嬢が、この老いぼれに何の用かな? 今のギルドに、我ら花蜜族と語るべき言葉など残っておるのかね? それとも、また新たな『効率的な規則』でも押し付けに来たのかね?」
長老は弱々しい声ながらも言葉に棘を含ませた。
アンナは、これまでの経緯と『第0条』の秘密、そして『言祝ぎの蜜酒』が鍵である可能性を誠実に説明した。ギルドの現状を憂い、真の調和を願う心がその言葉に込められていた。
長老は静かに聞いていたが、やがてゆっくりと首を振った。
「その蜜酒は確かに我が族の宝じゃ。じゃが、今のギルドにそれを託す価値があるとは思えん。お前さんたちのギルドが掲げる『完璧な規則』とやらは、わしにはまるで甘ったるいだけの、中身のない毒の味がするのじゃ。その毒は、ゆっくりと、しかし確実に、我々の魂を蝕んでおる」
長老の言葉はアンナの胸に突き刺さった。
「言葉の味が薄れている……それは、ギルドが、いや、この世界全体が『真実の味』を忘れかけている証拠じゃ。お前さんたちのギルドは、その元凶の一つじゃ」
アンナは言葉に詰まった。長老の言う通りかもしれない。今のギルドは理想を忘れ、形式だけの存在になりかけている。その『毒』に自分も慣れてしまっていたのだろうか。
「ですが、長老様!」
アンナは顔を上げた。瞳には涙が滲んでいたが、それ以上に強い光が宿っていた。
「だからこそ、私たちは『第0条』の力を取り戻したいのです! ギルドを、そして世界を、本当の意味で調和させるために! このままでは全てが失われます! 私も、ギルドの一員として、その責任を感じています!」
アンナの言葉には嘘も飾りもなかった。その純粋な響きに、ネクタル長老は僅かに目を見開いた。彼の周囲の甘い香りが少し澄んだように感じられた。
「……ふむ。お前さんの言葉は、久しぶりに『真実の蜜』の香りがするのう。その瞳には確かに濁りがない」
長老は小さな杯を取り出し、琥珀色の液体を注いだ。それは太陽の光を閉じ込めたように輝いていた。
「ならば、試してみるがよい。この蜜酒を飲み干し、お前さんが感じる『ギルドの味』を、わしに正直に伝えるのじゃ。それができれば、鍵を託そう。ただし、嘘偽りがあれば、この蜜酒がお前さんの魂を縛るじゃろう」
アンナは差し出された杯を受け取った。失敗すれば魂が縛られるという。しかし、迷いはなかった。
蜜酒を口に含むと、複雑で濃厚な風味が広がった。最初に感じたのは圧倒的な甘さ。それはギルドが掲げる『完璧な調和』という表面的な美しさのようだった。しかしすぐにその奥から苦みが滲み出てきた。それは抑圧された異種族たちの声だろうか。さらに、舌を刺すような酸味。これは規則の硬直化が生み出す不条理か。そして最後に残ったのは、微かだが確かな『腐敗の味』だった。
「これは……」
アンナは顔をしかめた。
「甘くて心地よい香りがしますが……その奥に、何かがゆっくりと腐っていくような嫌な味がします。それは今のギルドの味……そして、その腐敗の原因はギルドの規則に仕組まれた『毒』の味です。それは多様な声を封じ込め、一つの色に染め上げようとする独善の味……そして、その毒に気づかぬふりをしている私たちの怠惰の味でもありますわ」
アンナの脳裏に、ヴィクター・レギウスの冷たい目とレオン筆頭調停官の歪んだ正義感が浮かんだ。そして自分自身もその歪みに加担していたという痛切な思いが込み上げてきた。
ネクタル長老はアンナの言葉に深く頷いた。
「見事じゃ、小娘。お前さんには真実を味わう資格があるようだ。そして、その『毒』の正体まで見抜くとはな。自分自身の甘さまで認めるとは……大した覚悟じゃ」
長老は小さな水晶の小瓶を取り出し、アンナに差し出した。
「これが『言祝ぎの蜜酒』の原液じゃ。第三の鍵として、お前さんに託そう。じゃが、気をつけるが良い。真実の味は、時としてあまりにも苦いものじゃ。そして、その苦さを知る者こそが、本当の甘さを創り出せるのかもしれん」
その時、館の外が騒がしくなり、武装したギルドの衛兵たちが部屋に踏み込んできた。先頭に立っていたのはレオン筆頭調停官だった。その瞳はアンナを射抜いていた。
「アンナ君、こんなところでおしゃべりとは感心しないな。ギルドの規則を軽んじ、無許可で重要人物と接触するとは、見過ごせない行為だ。君のその行動は、ギルドへの明白な反逆と見なす」レオンは抑揚のない声で言った。
「レオン様、これは誤解ですわ!」
アンナは弁解しようとしたが、レオンはそれを制した。
「言い訳は無用だ。君には、ギルドへの反逆の疑いがある。我々と一緒に来てもらおうか。抵抗すれば、実力行使も辞さない。それが、ギルドの『規則』だ」
衛兵たちがアンナに近づく。グランとリーフが前に立ちはだかろうとしたが、数で劣っていた。
(まずい……! まさか、ここまで早く動きを察知されるなんて……!)
絶体絶命のピンチ。しかしその瞬間、アンナが持っていた三つの鍵――『調律の竪琴』、『星影の水晶レンズ』、そして『言祝ぎの蜜酒』の小瓶が、まるで呼び合うように同時に強い光を放ち始めた。
三色の光が絡み合い、部屋全体を包み込む。衛兵たちはその眩しさに目を細め、動きを止めた。レオンだけがその光を忌々しげに睨みつけていた。
「やはり、君か……アンナ。七賢人の遺した『厄介な力』の継承者は……その力を、ここで終わらせてくれる! それが、私の……いや、ギルドの『正義』だ!」
彼の言葉と共に、アンナの脳裏に新たな声が響いた。それは大地の底から聞こえるような重々しいドワーフの声だった。
「――第四の鍵、目覚めし。されど道は険し。古き石の記憶を辿り、真の『礎』を見出せ。さすれば、残る鍵への道も開かれん――」
アンナの視界に、ギルド本部の地下深くに続く巨大な坑道のイメージが鮮明に浮かんだ。それはグランが語っていたドワーフの言い伝えと繋がっていた。そこには希望と危険が待っていることを、アンナは直感した。