朝のギルドは、今日もにぎやかだった。
クラリッサは、昨日戻ってきた冒険者の報告を処理しながら、鍋に仕込んだスープの火加減を気にしていた。
「……よし、味も上々。昼にはちょうど食べごろだね」
そんな中、ギルドの扉が重々しく開いた。
入ってきたのは、一目で“違う世界の人間”とわかる、上等な仕立ての礼服を着た男だった。
「おや……? まさか……クラリッサお嬢様ではありませんか?」
クラリッサの手が止まる。
「……随分懐かしい呼び方だね。あんた、たしか――」
「エドガー・シュタインです。覚えていてくださったとは光栄です」
エドガーは、クラリッサがまだ“リーベルト家の令嬢”だったころの婚約者候補の一人だった。
だが彼女が貴族の座を捨て、ギルドの受付嬢となってからは、関わることもなくなっていたはずだった。
「用件は?」
「いや、少々気になりましてね。まさかあのクラリッサ様が、こんな……庶民の中で働いていらっしゃるとは」
彼は、ギルドの壁や天井を見上げて、あからさまに眉をしかめた。
クラリッサはため息をつき、机の引き出しから帳簿を取り出す。
「皮肉言いに来ただけなら、もう帰ってくれる? うちは受付嬢でも、朝から晩まで仕事が山盛りなんだよ」
「皮肉などとんでもない。……ただ、なぜこのような場所で? 令嬢のままでいれば、もっと――」
「“もっと良い人生”があった? ははっ、どの口が言うかね」
クラリッサは立ち上がり、わざとらしく鍋の蓋を開ける。
ふわりと香る肉と野菜の匂いが、ギルドに漂った。
「こっちはね、貴族の晩餐よりずっと旨い。毎日働いて、笑って、汗かいて、飯食って、それでも誰かの役に立ってるって思える」
「……理解できませんね。令嬢という身分を捨ててまで、なぜそこまで――」
「そっちが理解できるまで、うちのスープ飲んで帰りな。黙って食べれば、少しは分かるかもよ」
エドガーはしばらく黙ったまま鍋を見つめていたが、やがてゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「……では、少々だけお邪魔します。味だけでも、確認させていただきましょうか」
「そうこなくちゃ」
クラリッサは笑った。
その笑顔は、貴族の仮面を脱ぎ捨て、ギルドの“母ちゃん”として生きる彼女のまっすぐなものだった。