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第8話 本当の愛の芽生え

 公爵家との離婚が成立し、実家であるルメート侯爵家へと戻ったアイシャは、しばらくの間、穏やかな日々を過ごしていた。もっとも、「穏やか」といっても、貴族の娘として背負うべき仕事や責務は山積みで、あの冷え切った結婚生活を抜けたばかりの彼女にとっては決して楽な状況ではない。だが、以前のように“誰かの意図に従うだけ”の人生からは解放され、心の底から「自分の意思で動いている」と感じられる喜びが、忙しさを上回っていた。


 領地の管理を手伝い、村々を巡り、使用人たちの意見に耳を傾ける。かつては教科書や机上の学習としてしか知らなかった「貴族の責務」を、いま実践を通じて肌で感じ始めているのだ。農作物の収穫量や売り先との交渉、領民の生活改善にむけた助成策——書類仕事から現地調査まで多岐にわたるが、アイシャはこの新しい世界にやりがいを見いだしていた。


 同時に、心の中ではある戸惑いが芽生え始めている。それは、王宮騎士エドガーの存在を想うたびに、胸が微かに高鳴ることだ。離婚のゴタゴタが終わるまでは、アイシャ自身、その感情に気づかないよう必死だった。エドガーは幼なじみであり、彼女が公爵家で苦しんでいたときに手を差し伸べてくれた“大切な味方”でもある。だが、いざ自分が自由になってみると、その“味方”という言葉に収まらない特別な想いが芽生えているのを、否定できなくなっていた。


 離婚成立後、エドガーは何度か侯爵家に姿を見せたり、あるいは領地巡回の任務で偶然を装うように彼女と出会ったりしている。王宮騎士として国の各地を巡ることが増えたのだが、それでも行く先々で手紙を送ったり、実家へ報告に立ち寄ったりと、可能な限りアイシャの状況を気遣ってくれていた。その姿は、かつて公爵家で「必要最低限の会話しかなかった夫」との関係を思い出すと、まるで真逆の優しさを持った男性のように感じられる。


 なにより、エドガーはアイシャが実家へ戻ってからも、一度として「再婚してはどうか」「騎士として守ってあげる」などと押し付けがましい言葉を口にしなかった。むしろ「今は君が自分の道を見つける大切な時期だ」と、そっと背中を押してくれる。その穏やかな配慮が、アイシャの胸をじんわりと熱くさせるのだ。



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再会を重ねる日々


 離婚が世間に知れ渡ってから数か月が経ち、季節は少しずつ初夏へと移ろい始めていた。ルメート侯爵家の領地には、豊かな緑が広がり、アイシャは領民たちのために新しい施策を考えるべく、毎日のように資料を読み込み、足を運べる村には積極的に出向いた。そんな姿を、両親や使用人たちは少し驚きながらも応援している。かつて「お飾りの令嬢」として育ったアイシャが、こんなに積極的に動くようになるとは思わなかったのだろう。


 ある日、アイシャが小さな農村を視察していると、遠くから馬蹄の音が近づいてきた。いつもの王宮巡回とはやや違う、少人数の騎士が馬を駆り、村の入り口で止まる。その先頭には、紛れもなくエドガーがいた。彼は馬を降りると、村長と挨拶を交わして何やら話をしている。

 アイシャは好奇心に駆られ、そっと近づいていく。村長が「実はこの村の道具置き場が壊れておりまして……」と嘆くのを、エドガーは真剣な面持ちで聞いていた。王宮騎士の任務は本来、国全体の治安維持や貴族への警護が主だが、地方の実情を把握することも重要な仕事だという。

 視察を終えたエドガーが、アイシャに気づいて微笑を浮かべる。

「ここで会うとは思わなかったよ。最近はずいぶん領地の村々を回っているんだね」

「ええ。わたしは領地の管理に関わっているの。村人の声を直接聞かなきゃ、書類だけでは分からない問題も多くて……。エドガーこそ、どうしたの? こんな辺境の村まで来るなんて珍しいわ」

 エドガーは少し恥ずかしそうに目を逸らし、しかし嬉しそうな声音で答えた。

「上層部から“地方の状況を探って報告せよ”との任務が増えてね。警備の要請があれば援助するし、国への要望を取りまとめる役目もある。……まあ、つまりは王宮から“地方の世情に詳しい騎士”を育てたい狙いがあるんだと思う」

 その言葉に、アイシャは素直に感心した。

「なるほど……大変そうだけど、あなたには向いているんじゃない? 人の話をよく聞いて、必要な手助けを考えられる人だもの。わたしの領地にも、色々と助けてほしいくらいよ」


 そう言うと、エドガーは照れを隠すように小さく笑みを零す。かつては幼なじみとして、無邪気に剣術や礼法の話をしていた二人が、いまはこうして“領地管理”や“王宮の施策”など真面目な話を並べ、現地で意見を交換している。その光景は、アイシャにとって新鮮で、かつ心地よいものだった。今までの人生では味わうことのなかった“共に知恵を出し合う関係”を、エドガーとのあいだに築きつつあるのだ。



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支え合う感覚


 そんなやり取りが続く中で、アイシャの中に「彼ならば、自分の夢を共有できるのではないか」という想いが少しずつ大きくなっていった。以前は“愛されない結婚”に縛られて、夫に寄り添うこともできず、愛人に嘲笑されるばかりの日々だった。だが今、エドガーは“公爵夫人”という肩書を失ったアイシャに対しても、変わらぬ誠意を示し、むしろ以前より親密な距離感で接してくれているように思える。


 ある夕暮れ時、侯爵家の屋敷に戻ったアイシャは、自室の机で報告書を整理していた。そこへ、執事が一通の手紙を運んでくる。差出人は王宮騎士団の名で、宛名は“ルメート侯爵家のご令嬢 アイシャ様”となっている。

 封を開けてみると、そこにはエドガーの名で「王都の広場で大規模な武術競技会を開催するので、よろしければ見学にいらしてほしい」と書かれていた。王宮騎士が技量を競い合う年に一度の催しだが、エドガーはそこにアイシャを招こうとしているらしい。

(競技会……わたしを招いてくれるなんて、どういう意図なのかしら?)

 疑問を抱きつつも、アイシャの心は少し弾んでいる。兵士や騎士が華やかに競い合う様子を見る機会など、普段は滅多にない。ましてや、エドガーが自ら招待してくれたのだ。何か特別な思いがあるのだろうか、それとも純粋に“観客”として楽しんでもらいたいだけか。いずれにせよ、アイシャは喜んでその誘いに応じることにした。


 競技会当日、侯爵家の馬車で王都へ向かうと、広場は予想以上の賑わいに包まれていた。王宮騎士団や衛兵隊、さらには他国からの客人まで集まり、騎士たちは鎧を着込み、隊列を組んで入場している。アイシャは一般客や貴族たちの座るスタンドからその様子を見下ろし、胸の高鳴りを覚えた。

 そして、大会が始まると、騎士たちはアーチェリーや槍術、剣技などの種目で次々と競技を行う。エドガーは槍術と剣術の部門にエントリーしており、華麗な身のこなしで敵役の騎士を見事に打ち破っていく。その姿は、アイシャが幼い頃に見た「優しくて真面目なエドガー」とはまるで別人のようで、強さと自信が漲っていた。

 彼の強さを、すぐ隣の観客席にいる貴婦人たちも賞賛している声が聞こえる。「あの騎士様は素晴らしいわね」「どんな人かしら。どこかの令嬢が目をつけているに違いないわ」。アイシャは思わず心の奥に嫉妬のような感情が生まれそうになるが、それを抑えて笑みを浮かべる。

(あんなに輝いているエドガー……本当に立派になったのね)

 拍手が沸き起こるたびに、アイシャの胸もまた熱くなってくる。自分が自立の道を歩む間、彼もまた王宮騎士として成長を重ねていたのだ。それを今ここで目の当たりにすると、なんだか誇らしくもあり、心がざわつくようでもあった。


 大会が終わり、表彰式に出席したエドガーが幾つかの賞を受け取る様子を遠くから見届けた後、アイシャは王宮の裏手にある庭園へ招かれた。エドガーが「少し話がしたい」と伝言を寄越したのである。庭園の木陰で待っていると、鎧姿を脱いで軽装になった彼が現れ、微笑みながら一礼する。

「来てくれてありがとう、アイシャ。試合、見ていてどうだった?」

 アイシャは素直に拍手の仕草をしてみせる。

「とても素晴らしかったわ。まるで別人みたいに堂々としていて……正直、驚いたの。おめでとう、あんなにたくさんの賞を獲るなんて」

 エドガーははにかんだ表情で、「ありがとう」と呟く。それから少し黙って、視線を下げたまま何かを考えているようだったが、意を決したように顔を上げ、まっすぐにアイシャの瞳を捉える。

「実は、今回この大会に向けてすごく頑張ったんだ。それは、王宮での地位を確立したいという思いもあるけど……正直に言うと、君に胸を張って会いに行けるようになりたかったんだ」


 その言葉を聞いた瞬間、アイシャの心臓が強く鼓動するのを感じる。彼は幼なじみであり、ずっと気にかけてくれた大切な人。けれど、ここまで直接的に想いを示されたことはなかった。思わず目を見開くアイシャに、エドガーは続ける。

「君が公爵家であんなに苦しんでいるのに、俺は力になれなかった。それがずっと心残りだった。……だけど、君が離婚して、侯爵家に戻ってからも、俺は『次こそはちゃんと守ってあげたい』って思うんだ。君が望むなら、俺は君の横に立ちたい。……もし、君がもう誰かと結婚なんて考えたくないと思っているなら、それでもいい。ただ、こうして支え合える関係でありたい」


 決して押し付けるでもなく、無理強いするでもなく、エドガーは“アイシャ自身がどうしたいか”を尊重している。その態度が、彼女の胸をじんわりと温める。かつての結婚生活では、夫であるレオンや愛人エリザベスが勝手に彼女を物扱いしていた。あの苦い記憶と対照的に、ここには誠実さと思いやりがある。

 気づけばアイシャの目から、涙が一粒零れ落ちそうになっていた。エドガーは慌てたように「すまない、変なことを言ってしまったか……?」と心配するが、彼女は首を振って微笑む。

「ちがうの。泣きたいわけじゃないけど、なんだか胸がいっぱいで……。わたしが離婚したって聞いて、あなたが変わってしまうんじゃないかと思ってた。よくあるでしょ、離婚したら次はすぐに再婚を迫るとか、あるいは同情しすぎて依存しちゃうとか……。でも、そうじゃなかった。あなたは最後まで、わたしを“一人の人間”として尊重してくれている」

 そう言いながら、アイシャはそっと手を伸ばし、エドガーの手の甲に触れる。まだ躊躇いはあるが、確かに自分の心は「彼を愛したい」という気持ちに向かいつつあった。



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愛の告白と、新しい未来


 庭園の木々が風になびき、木漏れ日が二人の間に揺れる。アイシャは静かに息を整え、「わたしはもう、他人の意志で結婚するのはこりごりよ……」と呟く。エドガーは真剣な眼差しで耳を傾ける。

「もし、わたしが今後誰かと人生を歩むとしたら、それは“自分の意志”で選んだ相手じゃないと嫌。……ずっと先になるかもしれないし、もしかしたらそう遠くないかもしれない。でも、わたしはようやく、本当の愛を求められるようになった気がするの」

 その言葉に、エドガーは優しく微笑む。

「……ならば、俺は君が自分の道を見つけるまで待つ。君が『一緒にいてほしい』と思ってくれるなら、俺は喜んで君の横に立ちたい。君が望むなら、いつでも手を差し伸べるよ」


 それは、強引なプロポーズでも、即座の再婚を迫るものでもない。一人の女性として、傷から立ち直り始めたアイシャを支え続けたいという気持ちの表れだと、彼女は受け取った。胸が熱くなり、頬が微かに上気する。こんなにも自分の心を理解し、尊重してくれる男性に出会えるなんて、あの苦しみに満ちた結婚生活の中では想像もできなかった。

 自分を救ってくれた人はエドガーだけではない。侍女長グレイスや、共に働く使用人たち、そして両親も最終的には離婚を容認してくれた。しかし、その中で“もう一度、結婚を信じてもいいかもしれない”“男性を愛してもいいかもしれない”と素直に思わせてくれたのは、紛れもなく彼だ。

 アイシャはそっとエドガーの手を握り返し、少し涙声になりながら、しかし確かな決意を込めて言葉を紡ぐ。

「ありがとう、エドガー。わたし、あなたとなら……いつかきっと、本当の愛を育める気がする。今はまだ、自分の仕事や目標に集中したいけれど、いつか気持ちが落ち着いたら、わたしも……あなたのそばに寄り添ってみたい。そんな未来を、考えてもいいかな?」

 彼はその言葉を聞いて、短く安堵の笑みを浮かべる。頷くたび、目尻にうっすらと喜びの色が滲んでいる。

「もちろんだよ、アイシャ。君が決めるタイミングで、君が望む形で、俺を受け入れてくれればそれで十分だ。……俺は騎士としての道をまっとうしつつ、いつでも君を支えるためにいるから」



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二人の歩む新たな道


 こうして、侯爵家の娘に戻ったアイシャは、王宮騎士として成長を続けるエドガーとの絆をゆっくりと深め始める。先の公爵家のスキャンダルが完全に幕を下ろしたわけではなく、貴族社会にはまださまざまな噂が渦巻いている。離婚経験のある女性を巡る誹謗や偏見は根強いし、エドガーとの関係を快く思わない貴族も出てくるかもしれない。

 しかし、アイシャはもう怯えない。かつての「白い結婚」とは違い、いま選ぼうとしているのは自分の意志での“真実の愛”だからだ。もしそれが認められないのなら、自分の力で貴族社会の障壁を打ち破り、再び堂々と証明してみせる——そのくらいの覚悟はできていた。

 エドガーもまた、「王宮騎士としての立場があるから、今すぐ堂々と婚約を——」などという性急な言葉は口にしない。むしろアイシャが領地経営の力をつけるまで待ち、真に自立した状態で二人の道を模索するのが理想だと考えている。彼は仕事の合間を縫って彼女の領地を訪ね、騎士団の視点から見える課題や助成策など、アイシャの相談に乗ってくれる。

 そうした共同作業の一つ一つが、二人の心を近づけていく。単なるロマンスではなく、お互いが“人生の仲間”になれるかもしれないという確信が、共に歩む未来を現実味のあるものにしてくれるのだ。


 いつかは正式に婚礼を挙げる可能性もあるだろう。あるいは、貴族社会のしきたりにこだわらず、事実上のパートナーという形を選ぶかもしれない。何にせよ、エドガーとならば、アイシャは“愛がないのに形式だけで結ばれる”という苦しみを経験しなくて済む。自分の心が正直に求めるときに、正直に手を取り合える。

 離婚と自由を掴んだアイシャは、いま真実の愛に目覚めようとしている。その一歩はまだ小さいかもしれないが、レオンやエリザベスによって奪われていた尊厳と笑顔を取り戻した今、彼女は以前には考えられないほど強く、希望に溢れた女性に生まれ変わりつつあった。



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星影の下で誓う想い


 ある夜、アイシャは屋敷の中庭を散歩していた。夜風が心地よく、仄かに香る花の匂いが胸を落ち着かせる。視線を上げれば、かつて「孤独を噛み締めながら見上げた星空」よりもはるかに明るく感じられる星影が広がっていた。公爵家にいたころの夜は、あまりにも冷たく、孤独だった。けれど今は、同じ夜空でも違って見える。離婚後に手に入れた“自分の人生”を生きる自由が、星の輝きすら変えてくれたように思えるのだ。

 ふと、エドガーの言葉を思い出す——「君が自分で選んだ道を歩むのを、俺はずっと見守っていたい」。その誠実な宣言は、かつての冷酷な夫とは真逆の、温かな希望に満ちたものであり、アイシャの胸を鼓動させるものだった。もう一度、もし誰かと未来を分かち合うなら、絶対に“真実の愛”でなければ嫌だ。そう決意していた彼女にとって、エドガーの存在は奇跡にも近い。

 同時に、アイシャは自問する。自分は本当にエドガーを“愛している”のだろうか。幼なじみ以上の特別な想いを確かに感じるが、まだ結婚に踏み切るほどの確信があるわけではない。愛していない相手に嫁いだあの苦しみを繰り返すわけにはいかないからこそ、今は一歩一歩確かめながら進んでいきたい。

 その疑問すら、今の彼女には大切なプロセスだと感じられる。昔のアイシャなら、「政略結婚だから仕方ない」と諦めていただろう。だが、離婚を経て、自由を得た今は“自分の心を大切にする”という感覚を大事にしている。結果がどうであれ、自分が本当に求める愛でなければ、もう自分を欺いて笑うことはできないのだから。


 夜空を見上げながら、アイシャは小さく息を吐く。

「……わたしは、わたしのままでいいのよね。焦る必要なんてないわ。だって、わたしはもう誰かのものじゃない。自分で選んでいいんだもの」

 星々は黙って瞬き、暗闇の中に微かな光を注ぎ続ける。かつては見えなかったその光が、いまはアイシャに向かって「大丈夫だよ」と語りかけているかのように感じられる。目を閉じれば、エドガーの真摯な眼差しと、領地での充実した日々、両親とのぎこちないながらも交わした会話の数々が脳裏に浮かぶ。あの冷たい結婚生活は、もう遠い過去のものになりつつあった。



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歩み出す二人の未来


 その後、アイシャは積極的に領地の改善に取り組み、王宮に出入りする機会も増えていった。新しい収穫物や特産品を見つけては、王都の商人に売り込む。王宮の官吏と折衝し、より良い流通ルートを整える。そんな中でエドガーと顔を合わせる頻度も高くなり、二人は自然と助け合う関係を深めていく。

 時にはエドガーが侯爵家を訪れ、領主の父と真面目に議論を交わすことさえあった。父も最初は「騎士風情が何を語る」と警戒していたが、エドガーの実直さと礼儀正しさ、そして何よりアイシャの仕事ぶりを理解してくれる姿勢に少しずつ心を開き始める。

 そうして「公爵との離婚を経たアイシャが、王宮騎士と手を組んで領地経営を推進している」という噂は、まるで風のように貴族社会に広まった。中には「また再婚の話か?」と騒ぐ人々もいるが、アイシャは笑って受け流す。自分が今すべきことは、再婚そのものよりも、「エドガーという存在を大切にしながら、自分の人生を築くこと」だと理解していたからだ。


 そしてある晩、書類整理のために夜更けまで起きていたアイシャのもとに、王宮からの手紙が届く。差出人はもちろんエドガーだ。内容は「今度、領地の近くで武術指導の出張があるので、しばらくそのあたりに滞在することになる。もし時間が許せば、一緒に夕食でもどうか」というごく簡素な誘いだったが、アイシャは思わず嬉しさで胸を弾ませる。

(会いたいと思った瞬間、会えるかもしれないというだけで、こんなにも心が躍るなんて……)

 公爵夫人だったころ、夫に愛される喜びなど感じたことがなかった。それゆえ今の自分が抱く“恋のときめき”にすら戸惑いがある。しかし、その戸惑いさえも愛おしく思えるようになっているのだ。それはまさに“本当の愛”を少しずつ受け入れ始めている証拠かもしれない。



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本当の愛の芽生え


 そして迎えたある日の夜、エドガーが仕事を終えたあと、領地近くの小さなレストランで落ち合う約束を交わした。こんな「平民向け」の店に行くのは初めてかもしれないが、アイシャはこの環境を心から楽しもうとしていた。豪華絢爛な公爵邸の晩餐会とは違い、気取らず自然体でいられる。

 ろうそくの灯りが揺れるテーブルを囲み、エドガーと軽い食事をしながら会話を交わす。領民の暮らしの話、王宮での出来事、騎士団の訓練の苦労話……そして何より、アイシャの抱く夢について。離婚直後は曖昧だったその夢が、今は少しずつ形を見せ始めている。

「わたしは、もっと領地の資源を活かして、外との交流を増やしたいの。王都や他国の商人とも積極的に取引して、領民の生活を豊かにしていきたいわ」

 そう語るアイシャの表情は、前の結婚生活で見せていた暗い影など微塵も感じさせない。エドガーはその変化をはっきりと感じ取りながら、優しく微笑む。

「君の言うように、色々な場所とつながりを持てば、領地もきっと発展すると思う。貴族だからこそできることも多いしね。もし俺で手伝えることがあれば、いつでも声をかけてくれないか?」

 アイシャはこくりと頷く。その瞬間、ふと視線が絡み合い、彼女は意識しないまま言葉を漏らしていた。

「エドガー……あなたといると、昔からだけど、不思議と安心するわ。なんというか、わたしが背伸びをしなくてもいいっていうか……」

 その言葉に、彼は少しはにかむように笑みを浮かべる。そしてテーブル越しにアイシャの手をそっと握ると、静かに語りかけた。

「実は俺も同じなんだ。君と話していると、幼い頃に戻ったような気持ちにもなるし、同時に“今の君だからこそ見せてくれる強さ”に胸が打たれる。それが、どう言えばいいのか、俺にとってすごく大きな存在なんだよ」


 静かな蝋燭の灯りの中、二人はしばし言葉を失って見つめ合う。それはまさに、“本当の愛”が芽生えつつある瞬間。かつてのアイシャなら、こんな繊細なやりとりを怖れるか、そもそも知らずに終わっていたかもしれない。公爵家での生活は、愛情や思いやりと無縁だったからだ。だがいま、彼女の心は「誰かを信じてもいい」「愛されることを望んでもいい」と叫んでいる。

 そして、エドガーもまた、アイシャが離婚して不安定な立場にいることを承知のうえで、焦らず、押し付けず、いつか対等に愛を築ける日を待とうとしている。その姿勢こそが、アイシャの心を深く揺さぶるのだ。強いだけではなく、優しく相手を思いやる“本当の騎士道精神”を、彼は体現しているように思えた。



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二人が描く新しい未来


 こうしてアイシャは、離婚を経て自由を得ただけでなく、エドガーとの間に“本当の愛”が芽生えはじめていることを実感する。まだ結婚という形に踏み切るわけではないし、貴族社会がどう見るかも未知数だ。だが、それでも「かつてのように、愛のない結婚に絶望することはもうない」と断言できるほど、彼への想いが深まっていた。

 エドガーが侯爵家を訪れれば、一緒に領地の問題について知恵を出し合う。アイシャが王都へ出向くときには、仕事終わりのエドガーと街の小さなカフェでお茶をしながら近況報告をする。そんな“普通の幸せ”が、彼女には何より尊いと思えるのだ。あの高級な公爵邸に飾られながら孤独を抱えていた日々が嘘のように、今は暖かな繋がりの中で生きていると感じられる。


 周囲の人々も、最初は驚きの目を向けていたが、最近では「離婚後のアイシャが生き生きしているのは、騎士のエドガーと良い仲だかららしい」と囁くようになってきた。それを聞いて「なんてはしたない」と眉をひそめる者もいれば、「彼女が幸せなら良いじゃないか」と応援する者もいる。しかし、もはやアイシャは他人の評価を気にしてはいない。自分の足で立ち、自分が選んだ相手と未来を紡ぐ——それこそが、真に自由を得た自分の生き方だと思えるからだ。


 ある晩、エドガーは任務の途中で侯爵家の門を叩き、「一言だけ顔が見たくて」と笑って来訪した。家事を終え、寝室へ向かおうとしていたアイシャは不意を突かれたが、すぐに頬を緩ませて応接室へ通す。二人は短い時間の中で、今日あった出来事を語り合う。

 別れ際、エドガーが帰ろうとする背中に、アイシャは思わず声をかけた。

「エドガー……ありがとう。あなたのおかげで、わたしはようやく“愛される”ってどういうことか、分かってきた気がするの」

 その言葉に、エドガーは少し驚いた様子で振り返るが、すぐに穏やかに微笑んで応える。

「俺は君が幸せになる手助けができるなら、それ以上に望むものはないよ。君が心から信じられる愛を、これから一緒に育めたら……それほど幸せなことはない」

 それは、明確な愛の告白であり、同時に“急がずに少しずつ進もう”という提案でもあった。アイシャの胸は熱くなり、心が満たされる。お飾りの夫人ではなく、一人の人間として尊重され、未来を共に考えられる関係。これこそが、彼女が渇望していた“真実の愛”の形かもしれない。



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星影が見守る二人の旅路


 こうしてアイシャとエドガーは、新しい未来へと歩み始める。公爵家の愛のない結婚を捨てた彼女は、今度こそ自らの意志で愛を選ぶのだ。その相手が幼なじみの騎士であることを、貴族社会は珍しがるかもしれないし、両親も一筋縄には納得しないかもしれない。だが、二人ならきっと乗り越えられるだろう。

 夜空には星々が輝き、かつて「白い結婚」に囚われていた頃のアイシャを嘲笑うかのように見えた光が、今はむしろ優しく彼女たちを照らしているように感じられる。星影は決して暗闇だけを映すわけではなく、本当に大切なものを見失いかけたときには小さな道しるべとなってくれる。

 あの舞踏会以来、アイシャは何度も星空を仰ぎながら、「もう、わたしは一人じゃない」と自分に言い聞かせる。両親の家業を手伝いながら、王宮の情勢を学び、エドガーとの関係を深め、いつか再婚という形を選ぶ日が来るのかもしれない。あるいは別の道を歩むことになるのかもしれない。それはまだ分からない。

 けれど、もう過去のように「誰かに決められた未来」ではない。そう確信できることが、アイシャにとって何よりの幸福だ。かつて“白い結婚”と呼ばれた冷たい檻の中で、愛を知らずにいた彼女が、今は自ら愛を知ろうと歩み出している。それはまさしく“本当の愛の芽生え”であり、星影の下で温かく輝く新たな物語の幕開けでもある。


 こうして、アイシャはエドガーとの交流を通じて、ようやく「真実の愛」というものを見つめ始めた。まだ“正式に結ばれる”かどうかは先の話だが、二人の心は揺るぎない絆で結ばれつつある。誰の所有物でもなく、自分の心に正直に生きる道を選んだアイシャの姿は、過去の自分——冷え切った結婚に囚われ、孤独に凍えるだけだったあの頃とはまるで違う。

 星影が夜空を照らすたびに、彼女は思い出すだろう。辛く苦しい日々もあったが、それを乗り越えた先には、本当の愛と自由が待っているということを。そしてエドガーの存在が、彼女の未来をよりいっそう輝かせる光となっていることを——この物語はまだ終わらない。星々の祝福の下で、二人は手を取り合い、新しい旅路を歩み始める。いつか、その道の果てに“真の幸福”という名の朝日が昇ると信じて。



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