店番を再開した私は、大切なことを思い出した。
イザベラお姉様に注意されていたのに、私は変装をせずに店番をしていたのだ。
「あの、シリウス様」
「また良いニュースと悪いニュースか?」
「いえ、そうではなくて……」
私は自分の髪を触りながら、おずおずと切り出す。
「今さらなんですが、町に来るときは変装しろと言われていたことを忘れてました」
「そなたも変装をする必要があるのか?」
「侯爵家の人間と出くわす可能性があるからって」
シリウス様もその可能性を忘れていたようで、「あ」と短く呟いた。
そして一直線に商品棚へ向かうと、店の商品を漁り始めた。
「確かこの辺に……あった」
そう言ってシリウス様が商品棚から発掘したのは、ドロドロした液体とブラシのセットだった。
「簡易的に髪色を変えるだけでも構わないだろうか」
「もちろんです」
シリウス様に指示されて椅子に座ると、私の後ろに回ったシリウス様が、ブラシで私の髪を梳き始めた。
慣れていない様子で、必要以上にそっと梳いている。
「では染めていく。液が顔に垂れてきたらすぐに言うように」
「はーい」
どこから取り出したのか、私の首元から背中にかけて大きなタオルがかけられた。
そしてその上に髪を乗せて、またブラシで梳いていく。
今度はブラシに液体を付けて髪を梳いているようだ。
なんだかとても穏やかで幸せで、少しくすぐったい。
「まだ乾ききってはいないが、色は定着した」
しばらくして、シリウス様が私に手鏡を渡しつつそう言った。
そして私の背中にかけていたタオルを回収した。
不思議なことに、タオルには一切の色が付いてはいなかった。あれは髪にだけ反応する液体だったのかもしれない。
……それなら、タオルは必要なかったのでは?
「鏡を確認しないのか?」
「あっ、はい。します!」
確認を促されて、慌てて手鏡を覗き込む。
そこに映っていたのは、金髪ブロンドの私だった。
金色の髪が、店内の照明を反射している。
「……似合わないですね」
「見慣れていないからだろう」
「そうでしょうか」
輝く金髪は確かに美しいが、私の顔に似合うかと言われると……。
いつもの赤茶色の髪の方が顔をくっきりと見せてくれていた気がする。
「変装にはなっているだろう」
「そうですね。かなり印象が変わりました」
私が鏡から視線を外すと、シリウス様が私のことをじっと見ていた。
「………………」
「塗り残しは無さそうなので、安心してください」
「………………」
「シリウス様?」
シリウス様は黙ったまま、私の髪を眺めている。
私の、金色に輝く髪を。
ああ、嫌な予感がする。
「シリウス様、もしかして……私とマリアンヌを重ねてます?」
「あっ、俺は、いや余は、別に……」
「重ねてたんですね!?」
シリウス様はバツの悪そうな顔をして黙り込んでしまった。
その反応が答えだろう。
私の即席金髪はストレートで、マリアンヌの髪は、シャーロットと同じらしいから、ふわふわのウェーブだろう。
それなのに、シリウス様は私の金髪にマリアンヌを重ねている。
全く違う髪型なのに、それを乗り越えてしまうほどに、シリウス様の中でマリアンヌの存在が大きいということだ。
マリアンヌはシリウス様の人生において、かなりの時間を一緒に過ごした相手だ。
だからシリウス様の人生から切り離すことが出来ないのは、私も分かっているつもりだ。
過去を消すことは出来ない。
過去は、その人の生きてきた証だから。
「シリウス様がマリアンヌに惚れていた過去は……そりゃあ嫉妬しますけど、否定するつもりはありません。私だって自分の過去を、誰かに否定されたくはありませんから」
私がクランドル家で暮らしていた過去は、誰にも否定することは出来ない。
嫌なことばかりだったが、それでも、あの生活は私の過去だから。
私を形作る要素の一つだから。
「だから、私自身が誰かの過去を否定することもしたくありません」
「あ、ああ」
「でも、私は今、シリウス様の目の前にいるんです。今!」
過去が消えることはないが、シリウス様も私も、『今』を生きている。
過去の上に存在する『現在』を生きている。
私たちが生きているのは、過去ではなく、『今この瞬間』だ。
「シリウス様も、今を、現在を、生きてください」
「余は……」
「過去の女を重ねないでください。過去を引きずらないでください。今シリウス様の目の前にいるのは、私です。クレア・クランドルです」
私はシリウス様の両手を掴んで、正面からその目を見つめた。
今この瞬間、シリウス様の両目にはマリアンヌではなく私の姿が映っている。
「……すまない。配慮を欠いていた」
少しして、シリウス様がしょんぼりと頭を下げた。
別に落ち込ませるつもりはなかったのだが、私の予想していた以上にシリウス様は自己の行動を反省しているようだった。
「まあ……類似点のあるものに、好きな相手を重ねてしまうのは、仕方がないと思いますよ。私だってフォークにシリウス様を重ねることがありますし」
「フォークに」
「シリウス様の髪と同じ銀色なので」
シリウス様は、フォークに自分を重ねられていると聞いて、返答に困っているようだった。
「あのですね、つまり何が言いたいかと言うと」
私はシリウス様の目を見つめ続けながら、不敵に笑ってみせた。
「マリアンヌを重ねることが出来ないくらい、シリウス様の中で私が大きな存在になってやります。覚悟していてくださいね!」