――風が吹き抜ける。
赤土の丘陵が連なる荒野で、魔姫リゼルダは土の心臓の前で立っていた。
漆黒のドレスの裾が風に踊り、冷たい月光が艶やかで妖美な髪を照らす。
その紅玉のような瞳は洞窟の奥ではなく、後方の闇をじっと見据えていた。
ここから出てくる夫、ザグロの帰りを待ちわびていた。
「先程からいるのはわかっていますわよ、兄上」
囁きにしては強く鋭い声だった。
そこには、張り詰めた糸のような緊張感が含んでいた。
「流石だ、リゼルダ。君は昔から一族の中で最も勘が鋭かったな」
ほどなくして、月光の下に象牙色の衣をまとった男が姿を現す。
仮面越しの冷たい眼差し――第十一王子のルベルドである。
「兄上、あなたは洞窟に邪法を施した後、立ち去るはずでは?」
「立ち去る? 君の愛しい黒き子が試練を成し遂げるかを見届けずに帰るなんて、退屈じゃあないか」
ルベルドの柔らかな口調。
しかし、その奥には爬虫類のような冷たさが潜む。
「ふふっ……」
リゼルダは微笑む。
しかし、その唇は冷えた鉄のように硬く、笑みの温度はどこにもなかった。
「兄上、あなたはどの兄や姉よりも狡猾な計略家。何かの企みがあるのなら、早急に宮殿にお戻り下さいませ」
「君ほどの者が、それを心配するとは。やはり怖いんだね、リゼルダ――自分の計略が見抜かれるのが」
ルベルドは肩を竦め、ゆるりと歩み寄る。
その足音は、夜の静けさを裂く刃のように細く響いた。
その穏やかな口調は次の瞬間、魔族の男の毒気に満ちた鋭い声へと変貌した。
「なあ、リゼ……俺達下位の王子、魔姫からすりゃ、ベン兄達はただの邪魔者だとは思わねェか?」
夜風が吹き抜け、リゼルダの髪をなぶる。
沈黙の中、その魔石のような紅い瞳が光るだけ――。
彼女の心はただ一つ、奥に潜む夫の名を呼び、決して失わぬと誓っていた。
***
「グオォォォォッ!」
ラドラが力任せに双剣を振り回す。
切っ先を無視した粗い剣筋は、まるで棍棒を振り回すようであった。
大振り故に当たらない、大振り故に読める、大振り故にかわせる。
(……これは……)
ザグロの脳裏に
――凍てつく迷宮の奥での出来事だ。
黄褐色の皮膚に覆われた怪物は、咆哮をあげて棍棒を振り回していた。
怪物の名は<
その魔物の名が、忘却の奥底から湧き上がる。
(俺は……この動き、この重さを知っている)
その瞬間、ザグロの足が自然と動いた。
半歩、右へ、肩を低く、呼吸を殺し体重を剣先に流す。
ラドラの双剣は空を裂き、そこにザグロの影はもうなかった。
「……ッ!」
すれ違いざま、霧青の剣が放つ一閃。
甲冑ごと左腕を断ち切り、ラドラの断面から弾け飛んだ金属片が洞窟の闇に鋭い音を刻んだ。
「その太刀筋だ。それこそが、俺との命の削り合いをした剣だ」
ラドラは動きを止め、そう呟いた。
その声にはどこか嬉しさを忍ばせ、兜の奥からかすかな笑い声が洩れた。
「やはり……貴様は勇者だ、レオフレッド」
「俺は勇者でも、レオフレッドでもない……」
「フフッ……そうか……しかし、その体、その剣筋、その一撃――全部が叫んでいるぞ、レオフレッドだとな!」
ラドラは異形の構えを取った。
(なんだ……あの構えは?)
四肢を大きく開き、低く沈む姿はカエルを思わせる。
逆手に構えた剣は、今にも弾け飛ぶような緊張を孕んでいた。
それは魔族独自の剣法――我々の世界なら、象形拳と呼ばれる流派に似ている。
象形拳とは獣や虫、鳥、魚といった自然界の生き物の動きを模し、肉体と魂を一体化させる武技。
その本質は単なる模倣ではなく、命の本能を剣術に昇華することにある。
人間界においては古来、虎・蛇・鶴・猿・龍といった五形が知られるが、魔族においてはそれに留まらない。
闇の獣、深淵の魔、古代より語られぬ異形――彼らは、理さえ踏み越える動きで刃を操るのだ。
その魔剣――。
(あれは……ッ!)
かつて、レオフレッドだった頃のザグロが目撃した殺法でもあった。
それは魔族が人間界の某国へ侵攻するため築き上げた黒い砦――その攻城戦。
砦の名は思い出せないが、戦場の空気――血の匂い、焼け焦げた石壁、地を這う悲鳴――それらが今、鮮烈に蘇った。
(あのときの……獣めいた剣士……!)
逆手の構えで跳躍して、低く斬り伏せる奇妙な剣法。
まさに今、目の前のラドラが取っているのは同じ型だった。
(……どうする?)
ザグロの喉がかすかに鳴った。
記憶の奥底、忘れたはずの勇者の本能が警鐘を鳴らしている。
「ヴォォォォォォアァァァァッ!」
咽喉を絞ったような低い咆哮、飛び掛かるラドラ。
低く繰り出された斬撃は獲物の脚を断つ一撃。
それは敵の脚部を狙ったものだ。
ザグロは相手の動き、狙いが手に取るように
過去の戦場、幾度も見た、幾度も打ち破ってきた型。
出される解答は――ただ一つ!
(空の爪だ……上から獲るッ!)
ザグロは瞬時に足を強く踏み込み、全身を撥ね上げるように跳躍した。
霧青の剣が手の中でかすかに光を帯び、刀身を包む淡い光輪が震え始める。
それは魔族のものではない。
かつて勇者が振るった、聖なる剣の残響。
「――破ッ!」
光が収束し、刃先に集まる。
ザグロは高く跳び上がったその瞬間、全身の力を込め、
天から地を裂くように聖なる一閃を振り下ろした。
――閃光。
疾風のような衝撃が洞窟を駆け抜け、ラドラの身体を真っ二つに断ち割った。
「み……見事……だ……」
ラドラの姿が宙で止まり、やがて胴体が音もなく崩れ落ちる。
片手剣となった赤黒い刃が地面に転がり、甲冑の破片が鈍い音を立てた。
「ハァ……ハァ……フゥ……ハァ……」
洞窟内に、静寂が戻った。
ザグロの胸が大きく上下し、霧青の剣の光がふっと消える。
ただ、微かな熱と心臓の奥に残る戦士の鼓動だけがそこにあった。