目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

ep10.聖光、断つ

 ――風が吹き抜ける。

 赤土の丘陵が連なる荒野で、魔姫リゼルダは土の心臓の前で立っていた。

 漆黒のドレスの裾が風に踊り、冷たい月光が艶やかで妖美な髪を照らす。

 その紅玉のような瞳は洞窟の奥ではなく、後方の闇をじっと見据えていた。

 ここから出てくる夫、ザグロの帰りを待ちわびていた。


「先程からいるのはわかっていますわよ、兄上」


 囁きにしては強く鋭い声だった。

 そこには、張り詰めた糸のような緊張感が含んでいた。


「流石だ、リゼルダ。君は昔から一族の中で最も勘が鋭かったな」


 ほどなくして、月光の下に象牙色の衣をまとった男が姿を現す。

 仮面越しの冷たい眼差し――第十一王子のルベルドである。


「兄上、あなたは洞窟に邪法を施した後、立ち去るはずでは?」

「立ち去る? 君の愛しい黒き子が試練を成し遂げるかを見届けずに帰るなんて、退屈じゃあないか」


 ルベルドの柔らかな口調。

 しかし、その奥には爬虫類のような冷たさが潜む。


「ふふっ……」


 リゼルダは微笑む。

 しかし、その唇は冷えた鉄のように硬く、笑みの温度はどこにもなかった。


「兄上、あなたはどの兄や姉よりも狡猾な計略家。何かの企みがあるのなら、早急に宮殿にお戻り下さいませ」

「君ほどの者が、それを心配するとは。やはり怖いんだね、リゼルダ――自分の計略が見抜かれるのが」


 ルベルドは肩を竦め、ゆるりと歩み寄る。

 その足音は、夜の静けさを裂く刃のように細く響いた。

 その穏やかな口調は次の瞬間、魔族の男の毒気に満ちた鋭い声へと変貌した。


「なあ、リゼ……俺達下位の王子、魔姫からすりゃ、ベン兄達はただの邪魔者だとは思わねェか?」


 夜風が吹き抜け、リゼルダの髪をなぶる。

 沈黙の中、その魔石のような紅い瞳が光るだけ――。

 彼女の心はただ一つ、奥に潜む夫の名を呼び、決して失わぬと誓っていた。


***


「グオォォォォッ!」


 ラドラが力任せに双剣を振り回す。

 切っ先を無視した粗い剣筋は、まるで棍棒を振り回すようであった。

 大振り故に当たらない、大振り故に読める、大振り故にかわせる。


(……これは……)


 ザグロの脳裏に映像ビジョンの断片が現れる。

 ――凍てつく迷宮の奥での出来事だ。

 黄褐色の皮膚に覆われた怪物は、咆哮をあげて棍棒を振り回していた。

 怪物の名は<巨鬼兵オーガロード>。

 その魔物の名が、忘却の奥底から湧き上がる。


(俺は……この動き、この重さを知っている)


 その瞬間、ザグロの足が自然と動いた。

 半歩、右へ、肩を低く、呼吸を殺し体重を剣先に流す。

 ラドラの双剣は空を裂き、そこにザグロの影はもうなかった。


「……ッ!」


 すれ違いざま、霧青の剣が放つ一閃。

 甲冑ごと左腕を断ち切り、ラドラの断面から弾け飛んだ金属片が洞窟の闇に鋭い音を刻んだ。


「その太刀筋だ。それこそが、俺との命の削り合いをした剣だ」


 ラドラは動きを止め、そう呟いた。

 その声にはどこか嬉しさを忍ばせ、兜の奥からかすかな笑い声が洩れた。


「やはり……貴様は勇者だ、レオフレッド」

「俺は勇者でも、レオフレッドでもない……」

「フフッ……そうか……しかし、その体、その剣筋、その一撃――全部が叫んでいるぞ、レオフレッドだとな!」


 ラドラは異形の構えを取った。


(なんだ……あの構えは?)


 四肢を大きく開き、低く沈む姿はカエルを思わせる。

 逆手に構えた剣は、今にも弾け飛ぶような緊張を孕んでいた。

 それは魔族独自の剣法――我々の世界なら、象形拳と呼ばれる流派に似ている。


 象形拳とは獣や虫、鳥、魚といった自然界の生き物の動きを模し、肉体と魂を一体化させる武技。

 その本質は単なる模倣ではなく、命の本能を剣術に昇華することにある。

 人間界においては古来、虎・蛇・鶴・猿・龍といった五形が知られるが、魔族においてはそれに留まらない。

 闇の獣、深淵の魔、古代より語られぬ異形――彼らは、理さえ踏み越える動きで刃を操るのだ。

 その魔剣――。


(あれは……ッ!)


 かつて、レオフレッドだった頃のザグロが目撃した殺法でもあった。

 それは魔族が人間界の某国へ侵攻するため築き上げた黒い砦――その攻城戦。

 砦の名は思い出せないが、戦場の空気――血の匂い、焼け焦げた石壁、地を這う悲鳴――それらが今、鮮烈に蘇った。


(あのときの……獣めいた剣士……!)


 逆手の構えで跳躍して、低く斬り伏せる奇妙な剣法。

 まさに今、目の前のラドラが取っているのは同じ型だった。


(……どうする?)


 ザグロの喉がかすかに鳴った。

 記憶の奥底、忘れたはずの勇者の本能が警鐘を鳴らしている。


「ヴォォォォォォアァァァァッ!」


 咽喉を絞ったような低い咆哮、飛び掛かるラドラ。

 低く繰り出された斬撃は獲物の脚を断つ一撃。

 それは敵の脚部を狙ったものだ。

 ザグロは相手の動き、狙いが手に取るように理解わかる。

 過去の戦場、幾度も見た、幾度も打ち破ってきた型。

 出される解答は――ただ一つ!


(空の爪だ……上から獲るッ!)


 ザグロは瞬時に足を強く踏み込み、全身を撥ね上げるように跳躍した。

 霧青の剣が手の中でかすかに光を帯び、刀身を包む淡い光輪が震え始める。

 それは魔族のものではない。

 かつて勇者が振るった、聖なる剣の残響。


「――破ッ!」


 光が収束し、刃先に集まる。

 ザグロは高く跳び上がったその瞬間、全身の力を込め、

 天から地を裂くように聖なる一閃を振り下ろした。

 ――閃光。

 疾風のような衝撃が洞窟を駆け抜け、ラドラの身体を真っ二つに断ち割った。


「み……見事……だ……」


 ラドラの姿が宙で止まり、やがて胴体が音もなく崩れ落ちる。

 片手剣となった赤黒い刃が地面に転がり、甲冑の破片が鈍い音を立てた。


「ハァ……ハァ……フゥ……ハァ……」


 洞窟内に、静寂が戻った。

 ザグロの胸が大きく上下し、霧青の剣の光がふっと消える。

 ただ、微かな熱と心臓の奥に残る戦士の鼓動だけがそこにあった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?